「私の話2019」

私小説です。

二・身の上話

 インターネットラジオを付けたら土岐麻子さんの歌声が聞こえてきた。
「いつもでもずっと信じたかった
 愛とはすべて許すことと
 でも気づいたら なにひとつも
 彼に許されてこなかった」
 自分の半生を、許されるどころか、責め立てられ追い立てられてきた半生だったと思う。今、四十七歳になって、父が死してなお、深層心理では亡霊に許しを乞いながら生きている気がする。やはり私も、気が付くまで親の愛を信じていた。
 数年前、私は心臓が針の筵の上で転がされている感覚がして一日に一時間も起きていられないようになった。その分、夜ぐっすり眠ることができるかというと、少しウトウトしただけで心臓が針で刺されるような痛みがして飛び上がり、一日に三時間、眠ることができればマシな方だった。
 私は親からの暴行などによる精神の障害があり仕事ができない。高校時代、このままでは死んでしまうと言った医者に両親から引き離され、以降、ほぼ独りで暮らしている。生活費は医者に説得された両親からの仕送りで成り立っている。
 表向き、親は仕送りを止めたことはなかったが、学費・医療費、その他もろもろ、わざと私に借金を追わせた。借金が正当に使われたのなら良い方だ。金を払わないのならと自費で入った大学を力づくで辞めさせられ、通学していないのに学費が借金になったということもある。
 両親は、自分たちを責める医者に当たると、親を悪者にするといって自分たちに都合が良いことを言う医者に替えさせた。心臓が針の筵の上で転がされている思いをしたときの前任の主治医も、そんな医者のひとりだった。
 前任の主治医は、金を出す人間の言うことは絶対だと、親による支配を支持した。解放されたいのなら経済的に自立することだと言うのだが、私が勤めに行っている間に親が留守宅を荒らしていくようでは仕事にならない。
 それを前任の主治医に訴えても、またまた働きたくないための言い訳を…… と言われた。心臓が針の筵の上で転がされる感覚がして昼は起きることができず夜も眠れないことも、ゴロゴロしたいための言い訳、夜更かししたいための言い訳と言われた。
 私は、彼の中でゴロゴロしたくて駄々をこねている小さな子供だった。コンビニなどのアルバイトから始めて会社などに勤められるようにするのですよと言うので、私は専門職のサラリーマンとして勤めていたことを話したのだが、その事実さえ仕事に就く訓練をしたくないための言い訳、あるいは嘘とされた。
 ついに感覚だけでは止まらず、脈も血圧も異常な数値を示して救急車で運ばれた。外科医は、詳しく調べれば原因が見付かるかもしれないが、現段階で原因は不明であると言う。検査を勧められたが、親は検査に猛反対し、私も、おおよそ精神から来ているものだろうと見当が付いたので、また借金を作るわけにもいかず、検査は受けなかった。
 その数日後、心配を掛けたので、私は当時の担当保健師に会いに行ったら驚きの声を上げられた。髪の毛が総白髪になっていると言われたのだが、私は保健師の勘違いだろうと思った。
 昔から白髪は多かったし、元々は黒い髪の毛が生えてから変色するわけはないだろうから、最後に会ってから数ヶ月も経たずに総白髪になるというのは考えにくかった。しかし保健師は、本当に苦しさで白髪になるんだと納得していた。先日、運転免許証の更新に行ったときに写真を撮ったのだが、それから苦しさは軽減したのに、たしかに、この五年で黒い毛は、ほとんどなくなっていた。
 同じ病院なのでカルテが共有されているのだが、前任の主治医は、カルテを開いただけで原因不明だってと言って終わった。白髪にも気付かないようだ。このままでは死んでしまう、駄目だ、医者を替えようと思った。裁判に掛けられる事件を起こしてしまったのは、その矢先である。
 心臓が針の筵の上で転がされている気がして、一日に一時間、起きているのもやっと、その間の一日に一回、自宅マンションの一階にあるコンビニで一番安い弁当を買ってきて食べるのが、風呂も入れない私の唯一の活動らしい活動だった。冷凍庫に入っている食パンをトーストすることすらできなかったのだが、それも、前任の主治医に話すと、凍ったままのパンもシャキシャキしていてオツなものですと言われた。
 起きるのすら怖いのに外に出られるはずがない。気が狂って何かしそうな気がしたが、それについても、前任の主治医は外で狂犬がウロウロしているわけではないと言う。これも当時の保健師に相談したのだが、何かされそうではなく自分がしそうなのだから、その認識は正しくないとは言われた。
 親は、私が百回オジサンと呼ぶ人間を通じて、私が医者の言うことを聞かなかったら、どうなるか判っているんだろうなと脅迫してきた。一日に百回、電話をしてくるので百回オジサンと名付けたのだが、相手にしなくなったら、それでも一日に十回は、親から脅迫するように電話があったと電話を私に架けてくるようになった。
 電話をしてくるなと言っても、百回オジサンは父からの電話を「虐待の電話」と呼び、また虐待の電話があったぞ! と意気揚々と電話を架けてきて、そのたびに私の心臓の痛みは激化した。百回オジサンに父からの電話をどう思うのかと訊くと煩いと言うので、だったら出るなと言っても変わらなかった。
 親に百回オジサンに電話をするのは止めるようにと電話をしても、会話が始まる前に、こっちには関係ないと言って電話を切られたので、私は親が逃げているのだと思っていた。後に百回オジサンが父さんからの電話が煩いと言っているよと言うと父は驚いたので、今になると、それに乗じて私の気を引きたいための百回オジサンの狂言もあったのだろう。
 とにかく私は前任の主治医と親に強要されて外出した。今になると無差別殺人事件が起こるのは、この延長線上かという気がする。私は町ゆく人たちに迷惑は掛けなかったものの、コンビニから缶ビールを持ち去って店長に羽交い絞めにされた。
 物を売るより万引き犯を捕まえるのが仕事という店長で、厳罰を望むと言われ、私は拘置所に三ヶ月、勾留された。しかし、この三ヶ月は、心臓の痛みもなく、その前の一・二年ほどで、もっとも安心できた時期だった。
 一度も面会に来なかった父親は、一度だけ手紙を書いて寄越した。全文を引用したいほど、文法・漢字・変な装飾点や傍点を含む約物を含め、国語というには程遠い言葉で
「人の言うことを聞かず.
 親は○○先生(前任の主治医)のような良い医者に当たって喜ろこんでいたのに.
 自分の痛い処を突かれ.不満に思って医者を変えるなんて
 言語道断です
 お前を蘇らせようとして忠告しているのに独断的に変えるなんて.」
 などとある。また
「お前のこんなつまらない万引で障害者にかまけて
 自分はスリルと快感と親の気を引こうとしたって犯罪は絶対に
 してはいけない.」
 ともある。痛い処を突かれたとかスリルと快感とか、自分の想像を事実と思ってしまうところは父も百回オジサンも一緒で、どこからが誰の主観なのかというのは追及しても判らない。ただ、医者を替えようとしたことを知っているということは、やはり百回オジサンと父は繋がっていたのだなと思った。そして自分の独断に従わないと独断的というのは、やはり父らしい。
 弁護士を雇う金がなく国選弁護人が付いたのだが、決して良い結果を生まないと力説したのに、弁護人は、情状酌量のための証人、俗にいう情状証人として父を引っ張り出してきた。
 私を保護することで再犯を防ぎますという証言をするはずの父は、私が、その数年前に私が自殺に追い込まれたほど追い詰められたことを知っているのかと検事に問われ、その手紙にあるままのことを証言した。
 コイツは楽をしたいから障害もないのに障害者を名乗ったりする、追い詰めなければ駄目なんだ、そのために「自分が」追い詰めているんだ、そのために借金もさせているんだ、もっともっと借金をさせて追い詰めなくては駄目だ! と法廷で絶叫し、裁判官に制止された。
 また、なぜ今日は母が出廷しないのかと訊かれ、病院の送迎バスの運転手に張り倒されて怪我をし入院していると答えた。裁判官が、なぜ刑事事件として立件されないのかと訝しがったら、それも父の中で事実が歪められていたことが露呈して、嘘を付かないようにと言われた。
 弁護人は、このくらいの犯罪だと執行猶予は一年くらいで済むのだが三年という異様に重い判決となったと訝しがったが、あんな証言をされれば当たり前である。
 そして無事に手錠を解かれて帰ってきたら、自宅では、箪笥から机から、すべての引き出しという引き出しが引き抜かれ、内容物もろとも床に逆さまにブチ撒けられていた。力が抜けたが、警察に電話をして現場検証をしてもらった。それも家庭内の問題と片付けられた。
 調べると、これが、三年ではなく、ちょうど五年前のことなのだが、四十二歳にして、やっと親から自分の家の鍵を取り上げることができた。これも、親と仲良くしたい百回オジサンは、親から聞いたけど家を荒らしたくらいで鍵を取り上げるなんて可哀そうだと言った。親も、家を荒らしたなどと、よく恥ずかしげもなく他人に言えたものだ。
 百回オジサンに出会ったのは、以前、通っていたクリニックのデイケアプログラムだった。最初から落ち着きのない人だった。五十歳を超えたオッサンが、毎日、二十代の女性スタッフの飲み物を隠しては怒られていた。私は半ば呆れながら、それを見ていた。
 あまり関わりになりたくないと思っていた百回オジサンに関わるようになったのは、私が体調を崩した時だった。体調を崩して診察を受けられない、薬を取りに行けない。しかし薬がないと生活が回らない。
 そんなとき、そのクリニックの院長が、百回オジサンに薬を持たせると言う。誰にも相手にされない彼に同情して軽く相槌を打ったことを、私と仲良しと伝えたらしい。私は、えええ? と思った。まず、百回オジサンに家を知られるのが嫌だ。電話番号を教えるのも嫌だ。そもそも仲良しではない。
 しかし、薬を入手する手段は、それしかなく、私は不承不承それを受け入れた。このことは今でも後悔している。私に理解される存在だと勘違いした百回オジサンは、私に飲みに行こうと誘った。私は金がないと断った。
 それでも百回オジサンは食い下がった。金を貸すと言う。返済能力がないと言うと返さなくていいと言う。最初は嫌々、付き合っていた。しかし、百回オジサンも悪い人ではないと思うと、まぁタダ酒だからいいかと思うようになった。
 だが百回オジサンは良い人ではなかった。私を独占するためなら私と他人の関係を、自分の親を使ってまで巧妙に利用した。それに気が付いたのは絶交してからのことだったが、もともと自分が欲しいものを独占するのには手段を選ばなかった。
 最初は少し電話が激しい人だなくらいに思っていた。こちらの調子が悪いとき、いくら電話を架けてくるなといっても架けてくる。しかし、しばらく電話を止めろと言っても、しばらくって何分? と、ふざけたことを言う。
 こちらから架けるまでと言っても一時間後には電話が架かってくる。しかし出たところで、具合が悪くて寝ているのを知っているのに、今、何してるの? しか言わない。そのとき私は、自分と電話をしてほしいのだと思った。しかし、今になると、その行動自体から何かを得たいという気持ちからではなく、私から電話をする時間を奪いたかったのだと思う。
 百回オジサンは、常に私と電話をするように要求した。私の友達は百回オジサンだけではないと言ったが聞かなかった。そして、電話が話中だったり私がしばらく電話に出ないと私の家にまで来た。朝の五時、私が寝ているのが当然の時間にもやってきて玄関ベルを連打した。
 電話は頻度を増し、一分間に二回とか、一日に百回以上に及んだ。なので私は百回オジサンと呼んでいる。私は、近所にある精神障害者地域活動支援センターに逃げた。電話も音を切ってある。そうしたら、センターの職員に、百回オジサンが私に取り次げと電話を架けてくると言われた。当時は、どうして判ったのかと思ったのだが、後の行動を見ると架けられるところシラミつぶしに電話をしていたのだろう。私の電話の着信履歴を見せると、これは異常だと言われた。
 相談窓口を案内すると言われたが、それは少し可哀そうな気がした。しかし自分が甘かった。それが、後に高度かつ巧妙にエスカレートするのが判っていたら、そのときに何とかすればよかったと思う。
 百回オジサンは、私に酒を奢ったとか、何かにつけて私に恩があるということを逆手に取った。病院職員の飲み物を隠したりする幼稚さの陰に隠れて気が付かなかったが、独占欲は彼を狡猾にさせた。私が持っている物を貪欲に欲しがり手段を選ばなかった。
 電話の次はパソコンだった。私の部屋にパソコンがあることを見て取った百回オジサンは、パソコンやってるの? と訊くようになった。私がパソコンを何に使っているのか判らない百回オジサンは、何をすることも「パソコンやってる」だった。そして、パソコンに嫉妬した。
 私を真似してパソコンを買うと、私に設定するように要求した。いろいろお仕着せの恩を振りかざされ、否応なしに何泊も泊まっていかされた。しかし、せっかく買ったパソコンも、買ったところで私の時間が奪えないと知ると有効に使おうとはしなかった。
 そしてパソコンを邪険に扱い踏んで壊した。それでも私が以前と同じようにパソコンを使っているのを見て、またパソコンを買って設定に来させた。パソコンだけではない。USBメモリーなどパソコンに付属する全てのものに対して嫉妬し、彼の家には不要な周辺機器も山積した。
 百回オジサンは、ゴロゴロしてテレビを観るのが趣味だった。六畳の部屋に自慢の五十インチのテレビがあり、録り溜めたハードディスクレコーダーが三台あった。金を使うのが好きなので、ディスクドライブだけ買い足さずレコーダーごと買い足していた。ペーパーフィルターがない未使用のコーヒーメーカーも二台あった。何を録っているのか訊くと、彼は、お笑いコンビの名前を挙げた。しかし観ているという話は聞かなかった。
 そしてテレビを観る気がなくなると私に電話をしているようだった。彼は自分がトイレにいても用を足しながら電話を架けてきた。電話越しに女性が喘ぐ声が聞こえたのでエロビデオを観ているのかと訊いたら、臆面もなくウンと答えた。
 また、何でも私とお揃いにしたがった。私が洋服を買うと、サイズも違うのに私と同じ洋服を買った。そして、彼がパソコンを買ったのと同様に、私に大型テレビやハードディスクレコーダーを買えと勧めた。私が断ると金を貸すからと言う。
 返せないと言っても通用しないので、はっきりと買わないと言うと、だったら自分が買うと言い、量販店に私を連れて行って値切り交渉をした。しかし、本人は全く買う気がなく、この人が買いますと私を押し出し、それを私が断るというコメディーのようなことも起きた。
 正月も毎年、初詣でに付き合ってくれと言われて、元日だけなら良いかと思ったのだが大晦日から一緒に紅白歌合戦を観るという。親に、百回オジサンみたいに有り難い人を邪険にするんじゃないと文句を言われていて、そういうときは、直接、脅された。
 百回オジサンの家は、どうしようもないくらい汚かった。私の家も雑然としているが、それとは別の意味で汚かった。まず、ゴミをポイ捨てするので散らばった薬などとともに床や万年炬燵の上に堆積し、炬燵が見えないほどだった。ゴミの山はベトベトしていた。平気で上に飲み物や食べ物をこぼし、それを拭く気もないのだった。それでも、百回オジサンが掃除のオバサンと呼ぶヘルパーが、週に一度、掃除をしに来ているという。
 百回オジサンの部屋は、また、ひどい悪臭がした。料理はしないので腐敗臭ではなった。何の臭いであるか不思議だった。最初、私は吸わないが百回オジサンはタバコを吸うのでタバコの臭いだと思っていた。しかし、彼の家に出入りするようになり、やがて理由が判った。
 百回オジサンは、大量の薬を服んでいた。ここが悪いといっては新たな病院に掛かり、また新たな薬を服んだ。そのため彼は常に便秘だった。彼の部屋に行くとドアを開けっぱなしで浣腸をしていた。そして、その浣腸を、ポイッと部屋の中のゴミ箱に捨てるのだ。
 トイレのドアは常に開け放たれていた。私が百回オジサンにドアを閉めないのかと訊くと、臭いを抜くのだと言って、けっして閉めようとしなかった。私は百回オジサンの家に行くのを止めた。そして彼は、また早朝から私の家に来た。電車が動いていないからと安心できなかった。
 彼はバイクを持っていた。しかし、向精神薬を大量に服んでいるので、常に事故を起こしていた。そのときは一年で三台のバイクを廃車にしたと言っていた。私がバイクに乗るのを止めろと言っても聞かなかった。
 同乗することを誘われたが固辞した。しかし、すでに私のヘルメットを買ってしまったと言い、実際に持ってきた。百回オジサンは金だけは豊富に持っていた。医者に診断書を書いてもらって、会社を病気で辞めたことにしているとのことだった。
 話に誇張があるかもしれないが、障害厚生年金と障害基礎年金が毎月三十万円、他に親から二十万円の金を貰っているとのことだった。それだから仕事をしないで私に酒を奢っても平気なのだと言った。平気な割には酒を奢ったことに固執した。
 しかし親からの二十万円は嘘ではないと思う。彼は親の前では小さな子供、まさにウチの子だった。子供を装っていたのではなく甘えん坊だった。彼は私のプライベートな時間には土足で入ってくるくせに、夕食は実家で摂っていて、その予定を最優先していた。
 そして、だらしない性格だからか故意なのか、二・三ヶ月に一回の割で財布を落とした。そのたびに親は彼に十万円を与えていた。百回オジサンは、金があるくせして妙なところはケチだった。電車は無人駅を使ったり子供料金で乗ったりして小銭を稼いだ。
 また、そんな生活をしていて生活保護を受けようとしていた。数ヶ月は生活保護を受給できたようだが、当然、そんな生活をしていれば生活保護は打ち切られる。そして、誰かが密告をしたと言って、その人に腹を立てていた。
 彼は頻繁に旅行に行くのだが、必ず保険を掛けた。これも、保険を重複して掛けることはできないと言われると、他の保険代理店に行って、隠して保険を掛けた。バイク事故も、保険金を引き出して新しいのを買いたいがために起こしていたのではないかと思う。保険会社の不払いを怒っていたが、それは当然のことだった。
 今になると、よく保険金詐欺で捕まらなかったなと思う。自分の欲望の前に立ちはだかる道徳観など持ち合わせていなかった。法を犯して生活保護費から電車賃の端数まで手に入れようとする貪欲さに、なぜ私はピンと来なかったのかと思う。
 今までの拙い行動から、そこまで悪知恵が働くとは思わなかった。私も知らない間に百回オジサンの策略に嵌っていたことに気が付いたのは、ある友人と絶交してからだった。
 百回オジサンと知り合ったクリニックの患者で、百回オジサンの他に交友があった人物が一人いた。百回オジサンは、その友人から私を遠ざけるために、私に憎悪を植え付けた。私には、それ以前にも万引きの前科があるが、親に、そうするように仕向けられたからで、特に万引きの前科は隠していなかった。
 それを百回オジサンは、その友人が、お宅の息子は犯罪者と付き合っていると百回オジサンの親に吹き込んでいると言う。その友人から彼の虚言癖には気を付けろと言われていたので、やはり自分が甘かったのかもしれない。
 本人は嘘を付くことに関して何も意識しないようで、私は不自然さを感じず、百回オジサンの言うことを信じた。百回オジサンを人が好いと思い込んでいた私は、その誇張が悪意のある方向に向くとは思わなかったのだ。
 それに、まさか自分の親まで引き合いに出すような高度な技術を使うようになるとは思ってもいなかった。もし彼の嘘に不自然なところがあって策略に嵌っていることに気が付いていれば、のちに自分の親の恐怖に怯えて死ぬ思いをしなくて済んだ。
 百回オジサンは私を自分の親に会わせた。自分の親に私が悪人でないと知らしめるためだと言った。そうやって百回オジサンは私の信頼を勝ち取っていった。そして、今度は私の裏で私をダシに使って私の親の信頼を勝ち取っていたのだ。すでに書いたが、父の遺品の中に、父が百回オジサンに宛てた私の悪行の報告に対する礼状の下書きが出てきて、私に百回オジサンと積極的に付き合えと強要したのを、なるほどと思った。
 心臓が針の筵の上で転がされている感覚に襲われていた時期、私は肺炎に罹ったことがある。四十度の熱が五日間ほど続き、普通の風邪ではないことは判るのだが、私は、金に加えて医者に行くまでの途方もない道のりを考えて家で寝ていた。
 あいかわらず百回オジサンからは、振り払っても振り払っても電話が架かってきていた。事情を話して大人しくしてくれと言ったら、嫌がっているのに私の銀行口座に五万円を振り込んできた。
 しかし、借りたくない金ではあったが金はできたものの、親が怖くてタクシーに乗ることができず、四十度の熱でボーッとしたままバスの中を立って病院に行った。バスの中では不思議と心臓が針の筵の上で転がされている感覚がなく、なんて楽なんだろうと思った。
 内科医はインフルエンザを疑い検査をしたが陰性だった。百回オジサンに金を返しておいてくれと母に電話をしたら、また、絞められた鶏のような声を作って、重病なわけねぇじゃねぇかぁ、ムダ金を使いやがってぇ! と怒鳴って電話を切られた。しかしそれでも熱が引かず、再検査の結果、マイコプラズマ肺炎だと判った。危うく百回オジサンに新たな借りを作るところだった。
 医療費も表向きは親が払うことになっていたが、いちいち領収書を送らされ、一円も違わず私の口座に振り込んできた。また、あるときは、五十万円の入院費を私の口座に振り込むからカードで立て替えておけと言いながら振り込まず、私の借金にされた。これも、病院なら、その場で分割払いに応じたのに、金がなくリボルビング払いにし、高利を払うことになった。私は、いつも金に関わることで怯えている。
 父は裁判で、私が食事も作らず三食豪華な買い食いをして毎週タクシーで病院に行ってゴロゴロしているとも証言した。一時間も起きていられないことや、食事も作れずコンビニ弁当を買っていたこと、父が怖くてタクシーを使えなかったことを、父か百回オジサンか、どちらかが味付けしたのだろう。
 父も前任の主治医も、百回オジサンを有り難い存在だといって(父は件の拘置所に送ってきた手紙にも書いてきた)絶交することを許さなかった。しかし、父からは鍵を取り上げたし、主治医も替えることにした。百回オジサンともスパッと縁を切ることにした。
 百回オジサンが最も欲しかったものは、他人から一目置かれることだったのだと思う。父には私の悪口を流しながら、私には父から私を脅迫するように強要されたと電話をする。互いの味方であるように見せていたのは、私や父に対してだけではない
 診察の前日になると、前任の主治医の名前を呼び捨てにし、あいつの顔を見るのが嫌なんだろうと、これまたしつこく電話を架けてきた。そして、一緒に行ってやるといって私の診察に同行したが、別に前任の主治医の診察態度に物言いを付けるわけでもなく、心配で付き添った体を装い前任の主治医の好感も得た。
 私は百回オジサンを無視して医者を替えた。死ぬ思いをしながら通い始めた新たな病院で、医者の面目のために初診だけ受けさせて診察拒否をされたり多々あった。それにしても精神科の診察拒否というのは、こんなにも多いものか。他の医者に掛かっている患者本人が診察を申し込んでくるのは医者と揉める患者だと判断して病院側が断るのが通例だそうだ。
 そんな中、やっと快く診てくれる医者がいた。それが今の主治医だ。今の主治医には前任の主治医や両親と対立構造を作ることで自分の位置を定めようとしていると言われ、なんかピンと来なかった。ただ、キチガイ家族の被害者だと思って自分を慰めてやってくださいと言われたときは、やっと理解者が見付かった気がした。
 通院が始まり、前任の主治医について、こんな嫌な思いをしたと話すと、自分は症状に謙虚に耳を傾けるように心掛けていると言われた。心掛けだけであっても、嘘や言い訳と言われないだけで前任の主治医とは格段の差だ。そんなことがあり、捉え方や解釈も修正できそうな気がした。
 そして、新しい主治医になっても、百回オジサンは私の通院に付いてきた。新しい主治医の経営するクリニックは完全予約制なのだが、他の患者を押しのけて先に診てもらうんだといって朝の八時に私の家に来た。ちなみに本来の予約時間は午後四時半で、診察開始時間も午前十時である。
 今の主治医は百回オジサンの病名を聞いて、それは違うな、彼は精神病ではなく人格的に問題がある、付き合いは止めるべきだと言った。百回オジサンは気まぐれに病院を変えるので、彼の本当の病名は判らない。
 しかし、今の主治医のひと言で、私は百回オジサンと完全に縁を切ることに決めた。最後の地団駄というのか、百回オジサンの夜討ち朝駆けは激しくなり、主治医の他に担当保健師の同意を得たうえで警察に相談に行った。中立的な二人の同意を得なければ、当時の私は、まだ親の仲間を敵に回すことは恐ろしかった。
 警察には、その場で取り押さえるから百十番してくれと言われたが、百回オジサンは警察官が来る前に帰ってしまう。しかし電話は引っ切りになしに架かってくるので着信拒否にしたらファクシミリが来た。警察に電話をすると、それを持って来てくれと言う。健康に不安を抱えながら警察署に行くと、担当の警察官は目の前で電話を架けて百回オジサンを怒鳴りつけた。
 どうしても駄目だと悟った百回オジサンは窮鼠を噛んだ。自分の親と結託し、私の親に、私が百回オジサンに借金をしていて、毎月、数千円を返すという約束をしているのに支払われていないという嘘を吹き込み、金を騙し取ろうとしたのだ。
 百回オジサンと縁を切ると決めてから、私は、父が私を脅迫するように言ってきてくるという百回オジサンを無視し、父にも抗議の電話をしなくなった。そうしたら瞬間湯沸器に近い父は急速に冷却され、私への風当たりも少なくなった。そして私は改めて百回オジサンとは縁を切った旨を父に伝えた。
 そうしたら、父は百回オジサンの親から電話があったので、翌日、金を返しに行くと言う。寝耳に水で、私は百回オジサンの親に電話をした。そうしたら、私の父の方から申し出があったと言う。そこで再度、父に電話をしても、父は百回オジサンの親の電話番号を知らないと言う。NTTに確認したが、発信履歴もなかった。
 百回オジサンの母親は、あなたが私の息子を利用したのが悪いのよと言う。私としては何を言われているのか判らず、お宅の息子は私に何をしているか判っているのかと事の経緯を話した。百回オジサン齢六十歳の母親に「ウチの子に限って警察に注意させるようなことはしません!」と言われたのは、このときのことだ。
 私の父に電話をすると、私と入れ違いに百回オジサンの父親から電話があり、私の父は、子供のことでグタグタ言うなと怒鳴って電話を切ったという。私の父という瞬間湯沸器は思い込みというスイッチで沸く湯が変わる。私は再び百回オジサンの親に電話をし、今度は百回オジサンの父親を呼び出したら、妻に任せきりで電話に出たことはないと言う。
 そんなことをしておきながら、百回オジサンは、ひと月後には自分がしたことは忘れたように、私のみならず、警察署に仲を取り持ってくれと電話をしたり、私が住む区の区役所の代表番号に私の担当保健師を出せと電話をしたり、私の主治医に電話をしたりして、自分がいちばん欲しかった他人からの関心という物を次々と失っていった。
 父の死後に百回オジサンから電話があったとき、それを警察に報告したら、担当の警察官は、六十歳にして友達もいなくて寂しいんだと思うよと同情的なことを言ったが、そんなことをしていれば友達を失うのは当然だと思った。
 そして、父が死んだのは、百回オジサンと縁が切れ、主治医が替わって心臓が針の筵の上で転がされている感覚がなくなり、健康を少し取り戻し、実家との関係も、これも少しだが回復した矢先だった。
 やっと動けるようになり、やっと普通に電話ができるようになり、そういう、いろいろな「やっと」が始まった途端だった。今の主治医には、今まで何も希望を叶えてくれなかったのに性懲りもなく期待していると言われるが、私が父に抱いていたものは期待とは違う気がする。
 やっと私の正当性が認められた。受かったまま行かせてもらえなかった大学にも行きたいし、身近なところでは本も読みたいし車も運転したい。それらを「取り戻したい」という気持ちだった。しかし、父が死んで、急いで取り戻さなければという焦りで歪んだエネルギーは、最初、不眠として症状を現わした。
 かつてブログを書いていたとき、出版社から本を出さないかと話を持ち掛けられたことがあったが、父と叔父に、単にマメに書いているからだと握りつぶされた。それが、書くのを阻止する人間がいなくなり、私は無性に書かねばという思いに駆られた。
 本を出さないかと誘われてから二十年以上が経ち、明らかに自分のものより質が劣るブログでも人気ブログになり、出遅れたという焦りがある。焦ったところで何かが書けるわけではないのだが、内容を伴わない、書かねばという切実な思いばかりが先行して、何も書けない日々が続いた。
 書けないという現実が目の前にあり、それを自分でも十分に認識しているはずなのに、それでも書かねばという思いを止めることができない。この感情は、意志では何ともできないものだった。この焦りが過去に感じたものと同じであることに、そのときは、まだ気が付かなかった。
 数日に一度は、そんな自分に疲れて眠れるようになり、しかし、その次の日は反動で眠れず、再び書かねばという思いに駆られ、だんだんと生活のリズムを崩していった。
 そして、ある日、息が切れたように起きられなくなった。起きよう起きようと思っても意識が混沌としている。書かねばという強迫観念から無理して起きても、気が付いたら意識がなくなっている。そして、意識を際立たせて立とうとしても、船に揺られている感じと恐怖で起きられない。
 やっと自由になれた…… そう思いながらも、それは心底からの自由ではなかった。意識がハッキリしていれば現実は昔と違うと理解することができるのだが、潜在意識では高校時代のような激しい殴る蹴るが思い出され、当時と同じ目眩と恐怖に襲われた。
 高校時代、高校で教師からの激しいイジメに遭って帰ってきた私は、一秒たりとも立っていることができず、家に着くなり玄関にへたり込んだ。それを、父親は、怠けている、甘ったれて横になっているといって殴る蹴るし、私を居間まで引きずった。
 しかも、そのまま休むことは許されず、すぐに立って着替えろと強要された。私が起き上がれないと殴る蹴るは激化し、その足や手を振りほどいただけで家庭内暴力だといって、何度も何度も繰り返し百十番通報された。
 やってきた警察官は父の言うことだけを一方的に信じ、私の言うことは虚言とされた。そして父に便乗して私を殴るようになった。近所に対して私に殺されると口走る父、頻繁にサイレンを鳴らして来るパトカー、今風にいうと、私が不良だという、いい「ブランディング」になっただろう。
 居間では、殴られる私の横に、常にステレオセットがあった。私の高校の入学祝だといって、親が、プールしていた「私の」金で買った数十万円するステレオセットだった。
 私は、そのステレオセットを見るたびに悲しくなった。どうして、こんな辛い思いをしているときに慰めの音楽を奏でてくれないのだ。どうして、音楽を聴く時間があっても、ステレオセットに触ることなく自室に監禁されていなければならないのだ。這う這うの体でステレオセットを使おうとすると、どうして、そんな「偏執狂」のようにステレオセットに触ろうとするのだと怒鳴られた。
 そのステレオセットは、音楽を五十時間も奏でることなく親が勝手に破棄した。破棄した後、親はレコードが聴きたいからターンテーブルだけは取っておきたかったと言ったが、私がレコードを再生するときターンテーブルの他にアンプとスピーカーを使っていたことを見て取れないほど、私がステレオに関わった時間というのは少なかった。ステレオセットを買った記念にと友人がプレゼントしてくれた貴重なレコードの類も消えていた。
 書かねばという焦燥は、そのときの起きねばという気持ちに似ていた。今は、そんな父もいないし、誰も警察など呼ばない。頭では判り切っている。しかし、少しでも理性の蓋の締め付けが弱くなり感情が向き出ると、誰かに責められるのではないかという恐怖に襲われる。助けてと叫びたいが、私の意見を肯定してくれる友人はいない。
 私は子供のころから孤立無援だった。子供らしい遊びをさせてもらえず、周りで話題になっている漫画の主人公の名前も知らなかった。今の主治医に、普通は、親の目を盗んで遊んだりするんだけどね…… と言われるが、それさえ許される環境になかった。
 親から逃れたとしても遊ぶ相手もいなかった。学校ではイジメに遭うようになった。その内容は今でも覚えている。「お前のカァちゃんキチガイ!」
 子供のことだから虐める大義が欲しかったのだろうし、それが親の受け売りであることも充分に想像が付く。私がターゲットになったのも、私の親は彼らの親より年上で、ちょっと大きな家に住んでいたことへの嫉妬もあっただろう。
 松戸市小金原は田舎ではあったが、暴走族などの手が届かない程度に品性がある町ではあった。そんな町でも、イジメというのはけっこう凄惨だった。どのような町だったからというより、むしろ、そういう時代だったからという方が正しいのかもしれない。
 上履きの靴を振っても出ないように画鋲をセロテープで止められたり、ジャンパーのライナーを開けて針だけが飛び出るように細工されたりした。のちにイジメが社会問題化して、中には眉を顰めるものもあったが、たいがいが、今どきの子供は、その程度で死んじゃうんだなぁと思うものばかりだった。
 また、テレビでは、識者と呼ばれる人たちが、イジメ被害者に対して、盛んに逃げろと言っていたが、私のころは、複数の加害者に羽交い絞めにされて逃げることすらできず、これも識者と呼ばれる人たちは現実を知らないんだなぁと思った。
 そして、家に帰ると、夏は四十度を超える、窓は天窓しかない二階にある西向きの自室に幽閉された。母は抜き打ちで私の部屋に見回りに来て、机に向かっていないと殴る蹴るされた。月に数百円の小遣いで、唯一、買うことを許された新潮文庫を読んでいても破り捨てられた。
 体育の授業も見学させられた。しょっちゅう倒れる私に体育の授業など務まるはずがないというのだが、今になると、高温の部屋の中でトイレが近くなるからと水も飲ませてもらえなかった私が頻繁に倒れるのは当然だった。後に、知人に私は軟弱だから病院に連れて行って点滴を打つとすぐに治ると言っていたそうなので、おそらくは熱中症だろう。
 そして、母は父が帰ると私が如何に怠けていたのかを報告し、母に加えて父は私を折檻した。父と母の暴力で違うことといえば、母は拳や足を使って無闇に殴る蹴るしたのに対し、父は私を掴んで尻を引っぱたいたことぐらいだった。
 そんな中、母が、ママ友の子供が東京の大手進学塾の試験を受けるので私に付き合って欲しいという話を持ってきた。勉強しか楽しみがない私は喜んで受験した。結果、付き合わせた本人は不合格で私は合格し、通わせてもらうことになった。
 勉強は唯一の楽しみだったので、私は、それに没頭した。塾の講師は優秀で、判らない問題が解けるのは、まさに魔法を見るようだった。そして、やればやっただけ結果が出るのが楽しかった。
 結果が出るといえば絵画や作文で県展などに入選したこともあった。母は、こんな、みっともないものが展示されるなど親に泥を塗る気かといって作品や掲載誌を捨ててしまったが、賞状だけは取ってあった。私は委縮して作文を一文字も書けなくなった。
 当時は「お受験」など盛んでなかったので、その進学塾に入れなくても、ある程度のレベルの大学までエスカレーターで行ける中学校に入ることができた。進学塾に落第したママ友の子供は、そんな中学校に入学した。中学では遊びのサークルを作ってナンパ目的のパンフレットを作り、それを私の母にまで配った。母は、それを見て、私と違って文才があって羨ましいなどと言った。
 母は、私には才能がなく褒めるに値しないという点で主張が一貫していた。それは、父の、私は追い詰めなければ何もしないに通じるところがあるだろう。中学時代になると、さすがに同級生からのイジメは息を潜め、中には私に謝罪した生徒もいた。しかし、私を評価する立場にある大人というものの顔色を伺わないで過ごすことは、すでにできなくなっていた。
 高校入試は、中学校からも、学年トップの生徒が入れないと沽券に関わりますのでと学区で一番難しい県立高校の受験を勧められた。順当に入る成績を取っていたが、母の興奮ぶりから嫌な予感がして、事前に甲府にある全寮制の進学校の特待生試験を受けておいた。
 県立高校の受験は、予想通り親に過剰なプレッシャーを掛けられ、腹痛により救急車で運ばれる事態になった。八木重吉が教鞭を取ったという自由な校風で知られる高校で勉強できないのは残念だったが、これで親から離れて勉強に没頭できると思った。
 そこを、甲府にある全寮制の進学校ではなく取手にある新興進学校に押し込んだのは、やはり母だった。おそらく甲府にある高校の対抗措置として付けてきたであろう好待遇に、母の目が眩んだ。
 三年間の学費だけではなく、PTA会費や制服も無料にしてくれるんですって、しかも特別なクラスで、課外授業もあって予備校に通わなくても絶対に東大に入れて見せますと言うのよと、ほとんど洗脳されたといっていいほど熱に浮かされていた。
 今まで東大に一人しか合格した実績がない高校が、必ず東大に入れるも何もないものである。それに、そこは、週に一度は校内で放火が起こるので有名な高校だった。のちにインターネット時代になって、ネット上は、その高校の酷い話の具体例で持ちきりになった。私のことも書かれていたのだが、いつの間にか消えていた。
 制服のセンスからして、何ともいえなかった。ダブルのブレザーに、千鳥格子のダブダブのズボンだった。入学式の予行演習というものがあったのだが、そこで、田舎紳士気取りの教師が、これは英国の由緒ある服装で、ネクタイはウィンザーノットで絞めなくてはならないなどと御託を並べた。そのくせ靴はスリップオンだしワイシャツはレギュラーカラーでないと怒られた。
 また、すべての行事は十五分前集合とされたが、例えば公共交通を使った移動などでは、前の団体が捌けていなくて混乱を来たすこともあった。他人に迷惑がられようと自分の流儀をキチッと通すのが大人の行動なのだそうだ。
 そして、絶え間なく起こる下足室での放火についても、校長は、朝礼で警察に生徒を突き出してでも犯人を挙げてやると息巻いたが、自分の業績を称える銅像を敷地内に建ててしまうほど対外的な印象を気にする人間に、そんなことができるわけがなかった。
 学校全体については、さらに大きな問題が沢山あったが、身に迫る危機に対処するだけで精一杯だった。今、ネットを見ると、毎年、教師自身が逮捕されていたことなども載っているのだが、詳細な報道内容はネットから抹消されている。当事者としては口惜しい限りだ。
 特待生として入学した私は、進学クラスに入れられた。進学クラスは三クラス構成で、トップのクラスと文系・理系のクラスが各一クラスあった。授業料が三年間免除というのは私だけだったが、私が入ったトップのクラスの三分の一ほどが特待生だった。それだけいると、すでに「特待」ではない気がした。
 高校の授業は、入学した当時から高校二年時の内容の授業が行われた。それまで、きちんと中学校のカリキュラム通りに勉強していた私には出てくる言葉も判らなかった。しかし高校に入ってから教わることまでやっているのに、それでも私が受けるはずだったところよりレベルが低い県立高校に落ちる生徒というのも凄いなと思った。
 特待生というのは趣味も勉強でなくてはいけないといって部活も禁止され、午後六時まで教室に缶詰めにされた。課外授業という名だが、文字通り缶詰で授業はなかった。そして私は、後に校長になる学年主任に、初めて会った途端に目が気に食わないと言われ、授業に出してもらえず廊下に正座させられていた。
 次の時間に席に戻ると「なぜ貴様はそこにいる!」とヒステリックな声を上げて、学年主任の担当でない授業を含め、一日七時間の授業は全て廊下で正座だった。担任に相談するも、上司に楯突くわけにいかないと取り合ってくれなかった。
 学年主任は後に校長になって、私にしたように部下の教師たちを即刻クビにしていたそうで、担任は賢明な判断をしたのだろうが、生徒には威張り散らすのに情けないなと思った。校長になった学年主任は不当労働行為で処分されながらも、今は法人理事になっている。
 一日七時間、無為に正座をさせられた上に、放課後も、習っていないことどころか、そもそも日本語を書いてあるのかも判らない問題集と向かい合わなくてはならなくなり、本当に発狂するのではないかと思った。国語の偏差値は七十ちかくを維持し、国語の教師だけは私を学年主任から擁護したが、英語や数学の偏差値は三十にまで落ちた。
 そして、家に帰ると休まるどころか殴る蹴る。今の主治医にも、よく両親を惨殺しませんでしたねと言われ、グレて仲間を作るのも選択肢ですと言われたが、私にはグレることは自室という座敷牢に閉じ込められる良い理由にされることにしか考えられなかった。
 グレなかった私は、市川市にある国立の精神病院に入院させられた。すぐに両親から引き離さないと死んでしまうと医者に言われた。母は、どうして神経病みになんてなってしまったのと、わざとらしくヨヨと泣いた。
 そこで、東大出が自慢の医者に、毎日、中学校の英語の参考書をさせられた。私の中学校の成績を見ずして、高校の英語が上手く行かなかったからといって急に中学校の英語となるのはバカにした話だなと思った。
 しかし、自分自身のことをしようとすると注射で眠らされた。それから三十年たった今でも、夏になると消毒もせずに注射を打たれた痕が化膿する。また、手紙を書いても看護師に読まれて文句を付けられ、看護師に読まれるから書けないと手紙に書いたら、それは手紙の中にしか書いていないのに、読んでいないと抗議を食らった。
 当時は、それでも病院から予備校に通って大検を受けに行った。病院からでは実家にいたときと通学路が違うはずなのに記憶にない。二年で辞めたかった高校も両親と高校に慰留されて三年まで籍を置かざるを得なくなり、大検は高校在籍中には受けられないので、一発で受かったものの、大検に受かったのは一浪した人たちと同じ年齢になっていた。
 それからしばらく実家に戻ったはずだが、これも記憶にない。代々木にある、高校の同級生が勧める無認可の予備校に通ったが、パッとしなかった。渋谷で屯している連中が、そのまま流れてきたような予備校だった。
 私は、あえて二流の大学を狙って願書を出した。適当なところに収まってしまいたいというのが正直な気持ちだったが、そういう学校に限って、不合格理由を通知してきて、すべて「学力以外の理由による」と書かれていた。そんな高校生活を送っていたら内申書など良いはずがない。
 私は、諦めて就職しようと思った。そうしたら、また両親が、お前などに務まる会社などないと反対を始めた。このままだと座敷牢に閉じ込められるのは自明の理だった。私は、当時は疎遠だった叔父を口説き、大学を併設している外国語の専門学校の最終選考の締切日に願書を出した。
 叔父は、それでも、私に学生生活の楽しみを味わわせてやってくれないかと私の父に頭を下げ、実家を追い出された私は叔父の家から専門学校に通うことになった。父は、学費を出してやるから借用書を書けというので、金幾ら也という借用書を書いたら、高校時代の行動を反省して嘆願する文章を書かされた。
 それからの専門学校時代は、私の人生で最も充実していた期間だった。入試は面接重視だったので、私は、基礎から始めるクラスではなく、いきなり成績が良いクラスに入れられ、最初はノートの取り方も判らず同級生に借りた。
 叔父が家を荒廃させてしまったので内風呂もなく、親も交通費を出さないので麻布の仙台坂上にある叔父の家から神田駅前にある専門学校まで自転車で通ったが、何も苦にはならなかった。
 環境の変化は性格にも影響を及ぼすようで、そのころの私は朗らかで人気があった。決して健康とはいえなかった身体も、毎日、楽しく自転車で通学したり銭湯に通ったため、身長百七十九センチにして体重六十キロという健康的な体つきになった。
 成績も、鰻登りに上がった。ノートも取れずに「可」の成績だった教科も、やがて「秀」になり、平均した成績は全優を超えるまでになっていた。成績は、二千人を超える学生の中で三番とのことで、大学への三年次編入へのお墨付きも貰った。
 私は何よりも勉強が楽しく、そのために自転車通学や銭湯通いが苦にならなかった。毎日が充実していて、周りのことなど何も気にならなかった。叔父は失業中なのに昼夜とも家には寄り付かなかったが、それはそれで初めての料理で怪我をしたりしながらもマイペースに独り暮らしを満喫できた。
 ある日、帰ってみると珍しく叔父がいて、警察が来たと言う。東京では定期的に警察官が巡回してきて家族構成などを記す紙を持ってくるのだが、私のような不審な人間がいるから警察が来るんだと怒鳴った。私は叔父の思い過ごしだろうと放っておいた。
 それから、叔父は、たまに帰ってくると、さかんにアルバイトをして遊べと言うようになった。私は、遊ばないからとアルバイトはしなかった。そうしたら、今度は就職しなくてもいいから体験として就職活動をしろというようになった。
 あまりにしつこいので従ったが、就職活動のためのスーツも買ってもらえず、母の昔の勤務先に転がっていたヨージ・ヤマモトしか着る服がなく学校に怒られ、叔父にも、営業をするな、車の運転をするなと、ほとんどの仕事を禁じられた上に、入社してから取らせてもらえと資格も何も取らせてもらえなかったので、どの会社も決まらなかった。
 そして、私は大学への願書を出して、無事に翌年から大学の三年次に編入して文学の勉強をする予定だった。叔父も親に学費を出すよう良く言い聞かせておくと言っていた。得意でもない英語を勉強しようと思ったのも、文学の基礎という考えがあったからだ。
 しかし、大学の入学金は期日までに振り込まれなかった。私は泣き叫んで両親と叔父に理由を訊いた。すると、叔父は「勉強なんて嫌いなものに決まっている、本当に覇気がある奴はアルバイトをして遊ぶものだ、それをお前は俺が隠れて様子を見に来ると必ず机に向かっている、そんなボーッとしているだけの奴に大学が務まるか」と言った。
 結局、私は、専門学校に斡旋してもらった海運業者に就職した。専門学校は、その会社を斡旋することを渋った。こんな会社の入社実績を作るのなら進学してほしいと言った。その意味は入社してから判った。
 そもそも入社する以前に会社に怒られた。年金手帳を持って来いと言われ、両親に、そういうものはあるかと訊くと、年金制度など破綻するから作らないと答えろと言われ、その通りに答えて激怒された。ちなみに私の父の以前の勤務先は厚生省だ。
 年金の加入通知だけではなく私の成人式の招待状まで私宛の郵便物は全て隠して捨て、そのくせ監禁している私に、いい成人式だったんですってと平気で言う。近ごろ、母の、このような行動について、認知症かと訊かれるのだが、今に始まったことでなく、認知症ではない。
 また、同窓会の案内も私が見る前に捨てられた。子供のとき、友達を作ると、ツルむのは不良の始まりだと言われ、親は友達を追い払った。そして、私には、ほら嫌われた、お前なんか相手にされないんだと言い、私は友達を作るのを臆するようになった。よって私には幼馴染はいない。
 入社した会社は大手電機メーカーの下請けで、海外法人に製品や部品を輸出する会社だった。新入社員はトイレ掃除から何からやらされて、残業も月に二百時間を超え、毎日がタクシー帰りだった。
 しかし、帰ったら帰ったで、叔父は、また、普通の会社が新入社員に残業させるわけがない、タクシーで帰ってくるのは六本木で夜遊びしているに決まっているからだと始まった。これも、思い込んだら新入社員などに六本木で遊ぶ金などないなどとは思いも至らないのだ。
 そして、叔父に、遊んでいるのだからと専業主婦以上の家事をやらされた。会社ではタイプを打つ仕事だったので、やがて手首は腱鞘炎となり、何度か水を抜いたが、もう限界だった。会社の同僚にはマスターベーションのし過ぎだと言われた。
 私は、鎌倉に死にに行った。なぜ鎌倉なのかは判らなかったが、宿の近所の人に親切にされ、生まれて初めて味わった旅行者気分のせいか、死ぬ気は失せてしまった。持ち金を全て持って出たが、それで滞在できる期間は、一週間が、せいぜいだった。
 一週間後、私は死ねず、会社に電話をした。会社の上司には、会社での仕事ぶりなどが、よく親に報告されていて風通しが良い家庭に見えるんだけどなと言われた。
 私は、今度は叔父の家も追い出された。そのとき、叔父は保護者用の成績表を見て、お前、こんなに成績が良かったのかと言った。
 郊外に住もうとしたが会社や家族に止められ、ときはバブルで、港区といっても埋め立て地に近く、しかも西向きでゴミ捨て場の目の前だから格安だという、それでも家賃が七万円もする六畳一間のワンルームに引っ越した。
 親は渋々、家賃の一部を助成したが、それと引き換えに私の留守宅に上がり込んだ。カセットテープを仕掛けて通勤したら、部屋が少し汚れていれば文句を付けるのも当然なら、綺麗なら綺麗で、会社をサボって遊びに行っているに違いないと言っていた。
 そんな中、地下鉄サリン事件が起きた。私は、週始めというプレッシャーで前夜は一睡もできず、当日も家を出るのが遅れ、タクシーで会社に向かった。運転手は何か変ですねと言うのだが、普段からタクシーで通勤しているわけではないので、よく判らなかった。
 会社は溜池にあったので、事件が起こった霞が関や虎の門といったら目と鼻の先である。会社には続々と同僚の安否を確認する電話が家族から入ったが、やはり私の家族からは入らなかった。私は家族に足を引っ張られる自分というものを自覚した。
 データの入力とか書類をコピーして綴じるとか、誰でもできることができなかった。酒を呷って会社に出ると調子がいいと言われたので、異様な緊張のせいだと思う。やりたい仕事ではなかったので仕事が不向きなのだと思い、失業保険が貰えるようになると同時に会社を辞めた。辞めると言ったとき、会社には酷く叱られた。
 会社も、能力がないだけで体質そのものがブラックというわけではなかった。仕事が多くなるのは、元受けから送られてくるデータを受け入れるコンピュータープログラムが書けず、いったん印字してから手で入力していたからというような理由だった。
 なので残業代もタクシー代も出ていたし、残業時間もしっかり記録されていたので、職業安定所に給与明細を持っていったら失業給付の給付制限は解除された。そして、国策でネットワークエンジニアの研修を受けた。
 また、このころ、主治医を替えた。それまでは母が探してきた芝浦の汚い雑居ビルのクリニックに通っていたのだが、労働条件の酷さを訴えても、主治医は顔も上げずに外車雑誌を読んでいて、みんなやっているんだろうと言うだけだった。
 そのくせ、会計のときには診察室から会計に出てきて、病名を変えたから、もう一回、初診料を取っておけよと言うような医者だった。障害基礎年金を受けられるようにしてやるからバックマージンを寄越せと言われた患者もいるらしい。一介の町医者だったのが今では数億円の美術品コレクターとして名を馳せている。
 失業して昼間も通院できるようになり、私は近所の総合病院の精神科に行った。その途端に再就職が決まってしまったのだが、そこで紹介してもらった渋谷のクリニックの院長には、院長が癌で亡くなるまで十年にわたり世話になることになった。
 母は、麻布の借地権付きの長屋のような家を叔父が荒廃させて維持できず立ち退きになったからと、白金に、団地に毛が生えたようなマンションを買い、私はそこに移った。そして親は、これこそ自分の持ち家なのだからと、なおさら我が物顔で私の家を荒らしていくようになった。そして私がそれを咎めるたびに、私は悪くないのに「警察を呼ぶぞ!」と脅された。私はビクッとして何も言えなくなった。
 私が自殺を企図したのは、このころのことだ。大学で文学を習いたかったように、文章に関わる仕事がしたいと思っていた私は、コンピュータースキルを身に着けてアルバイトとして理系の出版社に入った。しかし、コピーは良いものが書けても、やはり図形の加工など単純なことができなかった。これだけ誰でもできることができないと、自分は人間として駄目だと思った。
 当時は、まだ普通に人が死ねる強さの向精神薬が処方されていた。貯め込んでいたのか溜まっていたのか知らないが、私は、なけなしの薬を全て服んだ。しかし、死ぬことはなく、誰にも気付かれずに一ヶ月が経って目が覚め、足の皮が剥けたようだと思い、歩いて近所の総合病院に行った。
 実際は足の皮が剥けたどころではなく、布団に接していた部分が全て壊死していて、全身麻酔の大手術となった。薬の服用量も、よく呑み込めたねと驚かれるほどで、数人分の致死量に当たるようなのだが、トイレから異臭がしたので、無意識に水分を摂取して尿として排出していたのだろうとのことだった。
 親は、病院で「家族だから」と頻繁に口にした。しかし、その「家族」に、ひと月の間に何があったのか気にならないようだったし、病院が連絡するまで音信はなかった。家族だからと口に出さなければ実感できない程度の家族だったのだろう。そして、その家族に対して、文章に書けないようなことを言った。
 手術の日も、外科医が手術を始めると宣言した時間に親は来ず、外科医は手術の説明ができないと腹を立てていた。しかし、手術後の動けなかった時間も、なぜか生まれてきて楽だった時間のベストスリーに入るくらい安楽だった。
 当時、渋谷のクリニックの院長は死ぬ可能性があると思ってはいたようである。後に、頭の中に常に気に掛けている死にそうな人のリストがあるのだけど、そこから外したよと言われた。
 そして、私の親に、金だけ出して、一切、干渉しないように約束をさせた。私は親からの嫌がらせで、なかば半狂乱になっていた。今になると恐ろしいことをしたものだが、親が床に放り投げていったラジカセをベランダから投げ捨てたこともあった。それに私は壊滅的に金がなく、食うに困っていた。
 もう、自分でも何をしているのか判らなかった。金がなかったら物を盗ってでも食えと言われ、すでに何の判断も付かなくなった私は店頭にあるものを引ったくって捕まったりした。これが初回の前科である。そんなことをしながらも、毎日、自分を殺すかのように二十キロのマラソンをしていて、今になると、どうにかなりたかったのかもしれない。
 そんな中、ネットの掲示板で知り合った女性が私の留守中に家に来て、帰ったら玄関の鍵を壊していたことがあった。女性といっても私より年上で、結婚して夫もいる人である。家に帰った私は、勘弁してくれよ…… と思った。まだ高価だったディンプル錠に替えたばかりだった。
 その女性は私が自殺しているのではないかと思ったと言う。私は、言葉では上手く表せないが、よしよし、という気持ちで、しばらく家に置いてやった。渋谷のクリニックの院長は、さかんに一緒にいるんなら結婚して落ち着いてしまえと勧めた。
 ただ、大学を出てから勤務したことがなく司法試験浪人しかしたことがないという、その女性の夫が、毎日、私の家に来ては妻と凄まじい口論を繰り広げていった。最初は穏やかさを装っていたが、「2ちゃんねる」に道徳者気取りと悪い噂が色々と書かれているのを見て妻の方が怯えていた。夫の方は蛙の顔に水だった。
 都立のナンバースクールというところから、ストレートで私学の雄といわれる大学の法学部に行ったというのが自慢の自称教養人の夫は、私が社会人になってから自腹で有名私立大学の通信教育課程に入ったのも気に入らないようだった。自分は出身大学を自慢するくせに、なぜ放送大学ではいけないのかと言った。
 良い大学で良い教育を受け、地道に勉強しようとしている私に対し、夫婦して大学の単位なんて他人のノートを写して取ればいいと言って憚らなかった。また、よく、私に、プレゼントと言って深夜に倉庫に盗みに行ったという盗品を渡した。私の盗癖の一部が残っているのは、これも影響しているかもしれない。
 やがて私も、その女性に手を焼くようになった。その女性には、子供のときに好きな物を買ってもらえなかったのだからと初めて物を買うことを肯定された。また、熱を出したとき躊躇なく病院に連れて行ってもらったのも初めてで、最初は居心地が良かった。
 しかし、いつ死んでもいいように綺麗にしているんでしょうと言われ、それまで、綺麗にお住まいですねと言われた部屋は、半年もせずに汚部屋になった。勧められる買い物も際限がなくなった。私は去年、そのときに買ったカメラを、何「台」ではなく六十「キロ」以上処分し、まだ残りがある。
 汚部屋といえば、その女性も非常に不潔な女性だった。請負の仕事をしているというので、夜間、自分が使っているパソコンを利用させていたのだが、キートップが食べ物でベトベトになった。靴下にはネバネバしたものが付着していた。自分の家なのに部屋に掃除機を掛けようとしても、寝ているからと禁止された。
 たまに私の留守中に食事を作っていたことがあったが、パスタ鍋一杯に同じ料理を作り、三食一週間、同じ料理を食べ続け、それで浮かせた金で外食をするのだと言った。その料理はすぐに腐敗したし、食傷気味で食べられないので買い食いとなり、食費が膨大に掛かった。
 どうケリを付けたのか覚えていないが、ここで私の両親が関わり、夫に妻を引き取らせて、一見、その話は終わったかのように思えた。しかし、夫は、当て付けなのか何なのか、猫なで声で妻に話しかける電話を私の電話機に架けてきたり、妻からも何度か着信があった。
 この前後のことも、父の死後、父の机の引き出しから出てきた文章を見て、なるほどと思った。マンションの自治会長が書いた、あの害を及ぼす変な女を追い出して煩い夫も来ないようにし、精神障害者は強制入院させろという自治会の内部文書が出てきたのだ。
 私は、渋谷のクリニックの院長が休みの間に代診で来ていた医者の病院に入院することになった。早朝、両親が車で私の家にやってくると、私は後部座席に拉致されて西国分寺にある病院まで連れて行かれた。
 任意入院なら、その場で断ればいいと思ったら、断ったら医療保護入院(強制入院)に変えると言われた。そして、治療計画書に、症状・部屋が汚い、目標・親に完全服従と書かれた。そして、その医者は、親御さんの思った通りの人格にしてみせますと言った。
 任意入院なのに外部との電話も手紙も禁じられた。そして、薬を投与されるごとに体調が悪くなっていき、正気を保つのも精一杯だった。また、一緒に酒を飲みに行ったこともある渋谷のクリニックの院長の患者が廃人同然になって入院していた。廃人同然なのに車椅子に括りつけられ、磨いてもらえなかったのだろう、歯もなくなっていた。
 これは、今見たネットの情報で思い出したことであるが、病室にはナースコールさえなかった。看護師も男性は髪の毛を整髪料でリーゼント風に固め、女性は軟骨にまでピアスを開け、名札もせず靴のカカトは踏みつぶしているような人間ばかりだった。
 夜、患者が急変してもナースコールがないので他の患者がナースステーションに職員を呼びに行くのだが、ナースステーションのブザーを幾ら押しても看護師はサボって出て来ない。それでバタバタと患者が死んでいくのを見た。
 ネットというのは不思議なもので、私の高校のときの学年主任が不当労働行為で摘発されたことも逮捕者が多数出たことも、ニュースを転載した個人の一サイトにしかデータが残っていない。それと同様に、この病院が不審死を病死として届け出ていたことも、大学の一研究室のレポートにしか残っていない。
 その病院は常に庭師が入っていて毎週のようにテレビドラマのロケが行われていたが、綺麗なのは外見だけで、後に拘置所に入ったことがある私から見ても驚くほど患者の人権というものがなかった。少なくとも私は拘置所で刑務官が受刑者を恫喝したのを見たことはない。
 病院には作業療法というプログラムがあった。作業療法室という中学校の教室三つ分くらいの広さの部屋があり、そこに移動するために患者は紐で縛られた。よく、拘置所から移送される容疑者が手錠を掛けられ、その手錠が紐に繋がれているのを非人道的だという人がいるが、そうしたら、この病院での患者の扱いは人間ではなく動物である。
 移動は、決して外来患者の目に付かないルートで行われ、作業などできる状態ではないのに、車椅子に縛り付けられた渋谷のクリニックの院長の患者も連れて来られていた。
 療法とは名ばかりで、その部屋には百人は下らないだろうと思える患者が詰め込まれているだけである。しかし私は、その中で、誰も気に掛けていないインターネットに繋がっているパソコンを見付けた。
 素直にブラウザーを立ち上げただけではインターネットに接続できなかったが、国でインターネットに関する研修を受けていたために、少し操作をしただけで、当時、自分が開設していたブログにアクセスすることができた。
 当時はブログなど書いている人は少なかったので人気ブログになっていた。そこに、自分が置かれている状況と、抜け出せるよう、ここに働きかけてくださいと、実家と精神障害者地域活動支援センターの連絡先を掲示し、電話を架けてくれるように呼び掛けた。
 実名で書いていたものの、検索エンジンは未発達だったし、書き込みが特定されないよう、検索はせずにURLはダイレクトに打っていた。キャッシュや履歴などはマメに消去していたのに、病院の職員は、それを発見した。ネットを見張る専門の職員がいるようだった。
 私は食事の時間に呼び出され、返信が六十通以上ついているから読まないでブログごと消せ! と言われた。非公開に設定することすらできなかった。私にブログの出版を持ち掛けた編集者とも、それで完全に音信が途絶えた。
 私の両親は、毎週、片道二時間以上かけて西国分寺まで私を見に来ては、良くなった、良くなった、素晴らしい先生だ! さすが院長とは違う! と繰り返し絶叫して帰って行った。私の父は、本当に瞬間湯沸器のように湯が沸いて、よく絶叫した。実際、交通取り締まりなどをしていると窓を開けて「もっとやれ!」などと大声で叫んだりするので、やはり絶叫という表現が相応しいと思う。
 その両親が、ある日、急に私を退院させると言った。退院してから、精神障害者地域活動支援センターにも電話があったとのことなので、両親に電話を架けさせるという作戦は、ある程度、功を奏したようだ。退院する帰りの車の中で、父に、あの医者どう思う? と訊いたら、今まで「素晴らしい!」と絶叫していた父は、そんなことは他人に訊くことではないと言った。
 そして、退院してから渋谷のクリニックの院長の診察に行った。車椅子に括りつけられている、その院長の患者のことを話すと、院長は、まだ入院しているの! と素っ頓狂な声を上げた。入院しているどころか廃人同然になっていると言うと、院長は、彼には身内は歳を取った母親しかいないのを知っているのかなぁと言い、心底から口惜しいなぁと言った。代診の医者は、それを知っているから近づいたのだろう。
 院長に私の退院時の処方箋を見せた。退院時だから、入院時より、かなり弱くなっているはずであるが、毒を盛られたなと言われた。そして、私に、スパイを兼ねて見舞いに行ってきてくれと言われたが、そんなところに行ったら何をされるか判らない。
 それからも、両親は、渋谷のクリニックの院長を、親を悪者にする史上最低のヤブ医者と言って憚らなかったが、国際電話会社のオペレーターという不向きでストレスが溜まる仕事であったが社会復帰することができ、回復していることを認めざるを得なかった。
 このとき、ストレスで体重が半年で倍増したのだが、それは、やはり両親が私を攻撃する格好のターゲットになった。当時の職場は西新宿にあり、埼京線の恵比寿駅までの往復、坂のある長い距離を毎日、歩いていたのだが、それ以上にストレスで食べていたことになる。
 高校時代のように両親は精神が原因で体調を崩すということは認めないので、ひま会社の吸収合併で退職者を募っているのに乗じて辞めたのだと思う。思うというのは、渋谷のクリニックの院長が死んでクリニックが廃院になったのと前後し、仕事を辞めたことも、まったく覚えていないのだ。
 今、履歴書を見ると十九年前で二十八歳のことだ。しかも、その後にも一社、職歴があり、そういえば、カメラが好きで入った総合光学機器メーカーが最後だった気がする。その会社をクビになったときは渋谷のクリニックの院長も生きていて、鬱病を理由にクビというのは酷いなと言ったことを思い出した。しかし、これからの記憶というのが、まったくといっていいほどないので、自分では三十歳を過ぎてから十七年間、成長が止まっているような気がする。
 離職後、渋谷のクリニックではデイケアプログラムに通っていたが、これに代わるものとして、両親に、精神障害者地域活動支援センターに通うことを強要された。活動支援などという名前が付いているが、不定期に任意参加のプログラムがあるものの、食事会の安い食事と、閉館後のファミレスでの一杯を楽しみに来る、障害者万歳と言って憚らない暇な生活保護受給者が無聊を慰めているだけだ。センターの当時の所長も、親の言葉に、開館から閉館まで、ただ、ここにいるのはね…… と言っていた。
 そして、親の差し金で、初めて港区の保健師という人間に会った。精神障害者地域活動支援センターは、この保健師の紹介らしかった。この保健師は、母と一緒になって私を責めるだけだったが、後に担当の保健師が替わると、親よりも私自身のことを考えてくれる人ばかりで、一日の中で、唯一、話をする人になっている。本当に、彼らがいなければ、私は、人生を投げて自殺を遂行していたと思う。
 精神障害者地域活動支援センターでは、私が持ち家に住んでいることに嫉妬した女性利用者が、私の名前で十数名に迷惑電子メールを何度もばら撒いた。その中の一人は私が犯人だと思い込み、私に喧嘩を売った。あまりにしつこいので手で振り払ったら、暴力だといって被害届を出され、私には暴行の前歴が付いた。その被害届を出した利用者も不審死で亡くなった。色々と薄気味が悪い出来事が多かった。
 施設内だからといって職員が対応してくれるということはなく、警察には、あそこの利用者からの相談が多いから絶対に利用しないようにと止められた。その女性利用者からは行くのを止めても五十通近くの嫌がらせの手紙が来た。
 院長が死んで渋谷のクリニックが廃院になり、地元の総合病院に移ったのは最近のことだと思うのだが、精神障害者地域活動支援センターに通い始めた時期を考えると、何年前のことだと順序だって説明することができない。
 地元の総合病院に移ったのは、渋谷のクリニックの院長の学友が精神科部長をやっていたからだ。渋谷のクリニックの院長は肝臓癌だったのだが、リンパ腺に転移して、あっという間に亡くなってしまった。紹介状もなく、カルテの最終ページのコピーをもって紹介状としてくれというものを持たされただけだった。
 最初の二・三年は、地元の総合病院で精神科部長の診察を受けていたのだが、公立なので、その医者が栄転してしまい、私の訴えは全て言い訳だと言う前任の主治医に替わった。今までの先生方の治療方針は間違えていますと言われ、既述のように症状が心臓に至っても言い訳と言われた。「親は○○先生のような良い医者に当たって喜ろこん」だ。
 そして、外出を強要され事件を起こして裁判に掛けられるわけだが、裁判と精神障害者地域活動支援センターの関連でいえば、父は、対人関係のトラブルを起こしてセンターを出入り禁止になったという事実と違う証言もした。また、センターの当時の所長が意見書を出してくれたのだが、検事は、そこが、そういう問題のある施設であることを強調した。
 そして今の主治医に医者を替え、やっと落ち着いた生活が始まったと思ったのは、つい先日のことだ。やっと父と落ち着いて話せるようになった。ただ、父に接触した理由は、やっぱり今の主治医が言う期待とは違う。
 よく、パーソナリティ障害は歳を取るごとに良くなるといわれるが、私が、心臓が針の筵の上で転がされる感覚を初めて覚えたのも四十歳を超えてからだし、意識が混沌としたり、それでも切実に何かしなくてはと思うようになったのも最近のことだ。
 最近は活動できる時間も一日に数時間程度で、週に一回、シャワーを浴びるのがやっとだ。夜中、ホースで浴びせられたような汗をかいて目が覚め、しかし身体が動かないので冷たい布団で朝まで過ごすこともある。
 そして、死んだほうがマシだと思えるほどの恐怖に襲われる。疲れ果てて午後四時にやっと起き上がったとき最初に思うことは、もっと寝たい、でも、よく寝た、でもなく、もう生きているのが嫌だということだ。死ぬまで、この苦痛に耐えることへの辟易だ。
 母親のように叫べたら、どんなに楽か。お前に障害者にされて俺の生活はどうする。生活費は誰が面倒を見る。公的年金も生命保険も掛けていない。病気の苦しさは歳とともに増す。何が楽しみで生きているのか答えてみろ。
 高校時代の自分が普通の感受性を持ち合わせていたら精神を病むどころでは済まなかっただろうから、心を固く閉ざしていたのだろう。それが今、感受性の柔らかさが戻って感覚が再現されているのだろう。これが最初に取り戻したものだった。
 私は環境が変わったくらいで軽はずみに変わる人間ではないのに、父は、高校が合わなかっただけで根性が腐って怠け者に変化したと思い込んだ。そして警察官が帰ると、刺し違えてでもお前の「甘ったれた根性」を直してやる! と絶叫した。あるいは、私に殺されると口走っていたのも、彼独特の思い込みからなのかもしれない。
 彼らは私に苦行を与え、それに堪えないと怠けていると怒った。私が自発的に何かするとは信じていなかった。しかし、私には、そういうことをしても自分たちは人生を楽しんでいる。自宅の車には指一本触らせないくせに、自分たちが若ければ四駆で山野を駆け回っているなどと言う。
 家族団欒なんて、そもそも期待していないし、父は死んでは不可能だ。私がしたかったことは、過去を正当に評価することなのだと思う。やっと傷を傷として認識することができ、次は、恐怖や緊張から解放されるために親を怖いものでないと認識しなくてはならない。父が死んだのは、そんな「やっと」が始まったばかりだった。自分の人生を歩きたいと思った矢先だった。(了)

一・私の話

 先日、父が死んだ。私には兄弟姉妹がいない。親戚も母の弟である叔父が一人いるだけだ。そして、父が倒れたのは、幸か不幸か二十五年ぶりに親戚一同が会した二日目のことだった。その翌朝、父は息を引き取った。
 父が倒れる前日、私は東雲の都営住宅に住む叔父を訪ねていた。今後のことを話したいので来てくれと言われていたのだ。叔父の家に来るのは二度目、上がるのは初めてだった。窓の下には高速道路が走り、その向こうには東京ゲートブリッジが見えた。
 叔父は、私に、私を受取人とした三十万円の生命保険証書と戸籍謄本を渡した。半端な額だなと思った。何年も前に取得した戸籍謄本なんて有効ではないと言うと、参考に取っておけと言った。そして、それで自分の葬式を上げてくれと言い、墓の話を始めた。
 私の母方、すなわち母と叔父の両親の墓は、中央線の高尾駅ちかくにある都営八王子霊園にあり、私が幼いころ両親に連れられて車で何度か墓参りに行ったことがある。母は、叔父が管理費も払わず放置していたため、危うく無縁仏として処理されてしまうところだったと文句を言っていた。
 そして、叔父は、それは母方の墓だから、父はどういうつもりでいるのか訊きたいので松戸にある私の実家に行きたいと言った。以前から私と一緒に松戸に行きたいと言っていたのだが、私は実家を追い出されてから最近まで、二十年以上、何度、親に電話をしてもガチャンと切られ、訪問しても門扉も開けずに追い返されることが続いたので、行くのだったら約束をしない方が良いと言ってあった。
 私の実家は、松戸といっても、千代田線からの直通電車しか止まらない、常磐線の北小金駅から、さらにバスに乗ったところにある。りんかい線から京葉線に乗り継いで行くのと有楽町線から千代田線に乗り継いで行くのと、どちらが良いだろうという話をして、結局は有楽町線に乗り有楽町駅から日比谷駅に乗り換えた。
 一日中ベッドに横になって酒を飲んでいる叔父は、七十六歳という歳にしても足腰が衰えていて、日比谷駅での乗り換えは一苦労だった。
 そして、北小金駅に着くと、土産に果物を買いたいと言う。もう、駅前に商店街があってケーキ屋と果物屋が並んでいる時代ではないと言っても、目の前のスーパーマーケットで梨を買った。そして、ビールが飲みたいと言うので、私が缶ビールを買ってきて店内のイートインスペースで飲もうとしたところ、酒は止めてくれと言われ、ペデストリアン・デッキのような場所で飲んでから実家に向かった。
 その後のドタバタで、よく覚えていないが、叔父の家を出たのが遅いうえに北小金駅前で時間を食ったので、実家に着いたのは、いい時間になっていたのだと思う。墓の話になると、父は新聞の切り抜きを出してきて散骨が良いと言い、八王子霊園の墓については、名義が叔父のままか、管理費を払っている母になっているのか、東京都に確認しようということで呆気なく話が終わった。
 そして、父は、時間が遅いから飯を食って泊って行けと言った。最近、私もやっと実家に上げてもらえるようになったが、いつも早く帰れと言われるので、叔父がいると、こうも待遇が違うものかと驚いた。私と父は二階のそれぞれの自室で寝た。
 翌早朝、私は外から誰かが呼ぶ声で目が覚めた。私は眠剤で寝ているので、薬が残っている間はフラついて起きられない。一階には母もいるし、二階にしても父がいる。そう思っても、一向に誰も出ない。
 仕方なく私が下階に降りていくと、隣の家のご主人が、お父さんが心肺停止の状態で倒れていて、今、救急車を呼んだからと言う。この人が隣の家のご主人であることも、前日、母と二人で歩いているところに、偶然、出会ったから知った。
 私が外に出ると、すでに救急車が来ていた。しかし、私が最初に思ったのは、心配ではなく、親が「飼っている」とさえいう私の生活が終わることへの恐怖と、自分の人生に良いことなど何もなかったという絶望だった。私から遊びを奪い勉強を奪い仕事を奪い、精神に障害を負うまで苦痛を与え続けて、やっとその手を緩めた矢先なのにという苛立ちだった。
 母も一緒に救急車に乗せられたが、本人にとっては、それは甚だ不本意だったらしい。病院に着いても子供のように駄々をこねている。私がカテーテル検査の説明を受け、同意書にサインをしようとすると、それは延命治療の同意書だからサインをするなと阻止しようとする。足手まといにしかならなかったので、叔父に電話をしてタクシーで来てもらった。
 待合室というか待機所のようなところで、長い間、待たされた。布団を敷いて泊っている人もいて、声が煩いと何回も注意された。しかし、母も叔父も一向に気に留めず黙ろうとしない。私は薬による口渇で何度も院内のコンビニに飲み物を買いに行った。
 長い時間、待たされた後、私たちは、昔ならシャウカステンなどがあったであろう、机とパソコンがある部屋に通され、医師の説明を受けた。救急車には医師も同乗していたとのことで、私が回復したら麻痺が残りますかと訊いて回答があったのは、相手が医師だったからなのだなと思った。
 どのような訊かれ方をしたのか忘れたが、私が積極的な治療はしないでくれと言うと、では心停止をもって死亡としますと言われた。そして、病院に泊まって行かれますかと言われ、あぁ、先は長くないのだなと思った。しかし、叔父は、さっさと食堂に行き美味い美味いと言いながらラーメンを食べていた。
 私の携帯電話は絶対に繋がるようにしてくれと言われた。それなのに叔父は暢気なもので、帰りに、実家から歩いて三分のスーパーでタクシーを待たせて酒を買った。その間に、メーターが、二千円、跳ね上がったのを覚えている。
 叔父は実家に戻ってからも、酒を飲んで幸せ幸せと繰り返している。私も、一緒に酒を飲むというより呷った。そして、叔父は、もう何十回と私の部屋に泊まっていると言い、私を父の部屋に追い遣って、自分は私の部屋で寝た。
 ずっと実家に上げてもらえなかった私は、どうして昔から、こんな叔父が息子の私よりも寵愛されるのだろうと日頃から疑問に思っていた。父は思い込みが激しく、可愛いと思った人間は何をしても可愛く、憎いと思った人間は、どんなに優しくされても憎いのだ。
 翌日の午前二時前、私は携帯電話の音で叩き起こされた。病院からの電話で、三十分で来てくれと言う。私は叔父と母を叩き起こしたが、叔父は、お前、ベッドから落ちたろうと笑っている。私は電話を取るのに夢中で、ベッドから落ちたかどうか覚えていない。しかも眠剤が効いていて一回目のコールで電話が取れず、かといって代表番号からだったので折り返すわけにもいかず、かなり必死になっていた。
 母を起こして外出の準備をさせようとしても、やはり叔父と同じで危機感が全くない。家を出るのに二時間以上かかったのではないか。タクシーを呼ぼうと言っても、近所のタクシー乗り場まで歩くと言って聞かない。
 雨の中、数百メートルしか離れていないタクシー乗り場に行くのに十分以上かかった。そしてタクシーはいなかった。タクシー乗り場は交番の前にあるのだが、叔父はパトカーで送ってもらうよう警察官に交渉してこいと私に言う。
 結局、病院に着いたのは午前六時前だった。すでに父は亡くなっていたが、母は、それを見て、容態が持ち直したようだと言っている。前日の医師や看護師の説明を理解していなかったのは腹立たしかったが、私は、理解していなかったから急いで家を出なかったのだと自分を納得させようとした。
 病院からは、すぐに葬儀屋に電話をして遺体を引き取ってくれと言われた。私は、物心ついたときには祖父母は全員、他界していたし、親戚もいないので葬儀の経験もない。叔父を頼ろうにも、叔父は相変わらず我関せずという感じだ。
 市立病院だから市の指定の業者なのだろうか、葬儀屋の一覧と、それでは不十分だろうからと電話帳を渡された。最初は大手の業者に電話を架けたが、料金が不明確な上に遺体の保管と葬儀・斎場は別の係になるという。
 結局は実家の隣駅にある個人の葬儀屋に決めた。きっちり価格を出してくれたことと、一人で最初から最後まで面倒を見てくれることが決め手になった。隣駅にしたのは、母が近所は嫌だと言ったからだ。
 葬儀屋は、すぐにやってきた。いつ電話が架かってくるのか判らなくて、それから急に忙しくなる仕事も大変だなと、自分のことより葬儀屋のことを案じた。棺桶がストレッチャーの横に付けられ、葬儀屋と看護師と私で遺体を棺桶に入れた。
 看護師は、まだ若い女性だった。こんな重い遺体を、よく軽々と持ち上げるなと顔を見たが、その顔は凛として美しかった。預かっていた荷物を返してくれて、私が伝票と相違ないことを確認してサインをしたのだが、その荷物は、その後、目にしていない。
 看護師は玄関まで私たちを送ってくれた。そして私が父のために買ったものを病棟に寄付したいと言うと快く受け取ってくれた。しかし、後から私たちを追いかけてきてシェーバーを出し、これは高価なものですからお使いになってくださいと言った。私には、葬儀屋や看護師など、疲れを顔に出さない人たちが逞しく見えた。
 翌日の葬儀は午前十時からだったと記憶している。私は日記を付けていて、その資料としてライフログのようなものを書いているのだが、日記もライフログも空白である。ただ、葬儀屋が、あまり早い時間も何ですからといって、空いている時間の遅い方を取ってくれた。実家に来たままの格好で、私は真っ白なリネンのパンツにポロシャツという出で立ちで葬儀に参列した。
 その日は私の通院日だったから、実家に戻るなり田町のクリニックに行った。私の主治医は、父は私に悪い影響しか与えていなかったので、これで人生が好転するかもしれないと言った。そして、私は白金の自宅で着替えを取り、再び実家に取って返した。
 それからは、とにかくドタバタしていた。日記を読んでも役所を駆けずり回ったとしか書いていない。覚えているのは年金事務所に行ったことだ。葬儀屋に不正受給には厳しいから早めに手続きしてくださいと言われていたのだ。
 必要な書類が多いので電話で確認してから行ってくださいと言われていたのだが電話が繋がらない。国の「ねんきんダイヤル」に架けたら、その場で年金事務所の予約を取ってくれた。代理人が手続きできるというが、母が自分で行くと言って聞かない。
 しかし、家を出るべき時間になっても、母がモタモタして出て来ない。さらに、年金事務所まで歩くと言う。年金事務所は隣の駅の傍にある。電車だと駅構内の移動を含めて十分程度で着くのだが、歩くと三十分以上かかる。体力が落ちている叔父の歩く速度は時速三キロメートルない。母も時速四キロメートル程度だが、叔父を待たずにスタスタ行ってしまう。
 三人の中で歩くのが最も遅い叔父の尻を叩くようにして母を追う。道を知っているはずの母は同じ道を行きつ戻りつしているが、私は叔父から目が離せないのでスマートフォンで調べる暇がない。
 何とか約束の時間ちょうどに年金事務所に入った。書類を書いて呼ばれるのを待つ。ブースに入って手続きをしたのは私ひとりだったのに、母は、こんな面倒なことは嫌だとゴネる。
 母の住民票が足りず、母を連れて最寄りの市役所の支所に住民票を取りに行く。母は自分がそれで良いんだと言って写真入りの身分証明書を持たないので、その場で委任状を書かせて私が母の住民票を取り、年金事務所が閉まる前に母より早く戻った。
 郵送でも良いと言われたが、手続きが煩雑になるし、実家と最寄りの支所を往復するのと、年金事務所と最寄りの支所を往復するのでは、距離は変わらない。なによりも一日も早く手続きを終わらせたかったので、当日、再び申請に来ると言ってしまった。
 年金事務所で叔父が待っているはずなので母を迎えに行かせようと思うが、電話にも出ないし年金事務所にもいない。私は受付で書類を渡し、母と待ち合わせている駅に向かった。母はおらず、私は支所までの道を母を探しに戻った。
 やっと叔父が電話に出たと思ったらビールを飲んでいたという。三人が落ち合ったときには、私はヘトヘトになっていた。私は、朝から食事どころかコーヒー一杯、飲ませてもらっていないので、駅の蕎麦屋に入ろうとしたら贅沢だと言われた。
 来るときとは違って別に急ぎではないのに、帰りは電車に乗った。そして私は、降りた駅に併設されているイートインスペースのあるパン屋に、力づくで止めようとする母を振り払って入った。私は、もう、殴られたり、家庭内暴力だと嘘を付かれて百十番通報された子供の私ではない、そう自分を納得させるのにも、意外と思い切りが要った。
 そして、疲れて一刻も早く帰りたいと言っていた母は、私を付き合わせて三時間かけて買い物をした。叔父は、ひとりで買い物をして帰ってしまった。買い物の最中に叔父から早く帰ってこいと電話があった。コーヒーを飲むのすら贅沢だと言っていた母は、叔父を待たせたくないといって帰りにタクシーを使った。
 帰ってからは父の入院から続く酒盛りだった。私も、いくら医者に止められていていようとも、飲まねばやっていられなかった。母と叔父は、父が子供を嫌いだったという思い出話をしていた。自分の子供まで嫌いとはねと笑っていた。
 母が銀行に行くと言って聞かなかったのは、その翌日のことだと思う。私が、死亡届を出したら預金が凍結されて金が降ろせなくなるし他に必要な書類もあると言ったのだが、それでも行くと言う。
 私は、母の住民票を取るた、に母が寝ている間に市役所の支所に行き委任状のフォームを取り、母が起きてからそれを書かせて再び支所に行った。実家を出たのは明らかに銀行が閉まっている時間なのだが、気が済むのならと思い付き合った。
 しかし、母は、やはり駅前のスーパーマーケットで長時間の買い物をした。母のケアマネージャーに言われていたので、ポイントカード代わりに持っていたクレジットカードをプリペイドカードに替えさせた。クレジットカードのリスクを教えても、カードにサインもしておらず、そもそもクレジットカードが何か判っていないので説得に時間がかかった。
 この前後のことを私はほとんど覚えていない。それは別に今回のことに限らず、五十年近い自分の半生に起こったことの記憶が、起きた間隔も不確かなら時を追っても考えられないので、病気のせいか向精神薬のせいか、おそらく器質性のものだろう。
 私は先日、実家に居たたまれなくなり自宅へ帰ってきたのだが、そのことを私が住む港区の保健師に相談したところ、父が死んで実家にいたときも母から距離を取ってコンビニに行っていたではないですかと言われて、そんなことがあったなと思う始末だ。
 順を追って考えると、銀行に行こうとしたときには母のケアマネージャーとクレジットカードの話をしているのだから、コンビニに行っていたのは、それ以前ということになる。私は、母のケアマネージャーからの今から行きますという電話をコンビニのイートインスペースで、くつろいでいるときに取ったからだ。
 母は、未明といえる時間まで起きていて昼過ぎまで寝ているという生活をしているので、朝のゴミ出しは私がしていた。他方、叔父は、酒を飲んで早々に寝て、夜中に大騒ぎをし朝は早くから大音量でテレビを付ける。私も早めに休もうと父の部屋に上がると、母は、ひとりで酒を飲んでいるのだろうと不愉快なことを言う。
 このころの私は、さかんに洗い物ばかりをしていた。三人で酒盛りをしているのだから食器の量は結構なものだったが、私は、まったく苦にならないどころか楽しかった。同じ起きているなら、どうやって洗おうか工夫していれば心の闇に落ちずに済んだ。それでも足りず、冷蔵庫の中の棚まで洗った。ふと見るとコペンハーゲンのカップが入れ歯入れになっていた。
 それは冷たい雨が降る夜だった。あいかわらず朝からコーヒーも飲ませてもらえない私は業を煮やして実家を飛び出した。もう殴られても怖くない、もう警察を呼ばれても警察官は親の言うことを盲目的に信じない、私は四十六歳になって、そのとき、やっと、そう居直れるようになった。
 どこか休めるところを探したが、三十分以上歩いても喫茶店ひとつなかった。やっと見付けたコンビニで、私はコーヒーを買い店の入り口で飲んだ。そうしたら、そこは飲食する場所ではないと追い払われた。それが悪いことだと知りつつ、私はゴミ箱を蹴飛ばさずにいられなかった。
 それから、さらに彷徨い、イートインスペースのあるコンビニを見付けたとき、私は砂漠の中のオアシスという陳腐な表現では表せないほど感激した。あまりの嬉しさで店員を称賛したら戸惑われた。
 親の金だと思うからホイホイと使えるのだと言われても、さすがにそれは説得力を持たなくなった。翌朝、私は起きて身支度をし、さっさと、そのコンビニ行き、朝食を摂りながらボンヤリとしていた。スマートフォンは、すでにデータ通信量を使い切っていて、SNSを見ることはできなかった。
 母のケアマネージャーから電話があったのは、そのときのことだ。ホーカツの人の予定が空いたので今から向かいたいと言う。ホーカツが何か判らなかったが、父が死んでから初めて感じる安堵感を邪魔されたくはなかった。後日では駄目かと言うと、その日しか空いていないという。
 結局、私は、文字通り一口も飲んでいないコーヒーと食べかけのサンドイッチを抱えて実家に戻った。そして初めて母のケアマネージャーとホーカツの人に会った。ホーカツとは、市の包括支援センターのことだった。
 母のケアマネージャーは、両親が私には絶対に連絡をしないようにと強く主張するので連絡ができなかったと言う。「絶対に」・「強く」と副詞が二つも入っていて、よほど強く言われたのだろうなと思った。
 私も、両親に電話をするとガチャンと切られる歳月が続いたので、両親が市の介護サービスを使用していたことすら知らなかった。最近は上げてもらえるようになったと書いたが、最後に来たときは、まだ実家には車があり母は平気で運転をしていたから、何年前だろう。
 母は、ベッドから半分落ちたまま寝ていて、叔父はまだ寝起きだった。ケアマネージャーさんたち呆れてるんだろうな…… と思い顔を見たら、意外と普通なので拍子抜けした。
 なぜ、港区の保健師が、私がコンビニに逃げていたことを知っているのかというと、誰かに伝えなければ抱え切れなくなっていた私は、考えられる至るところに電話をして手紙を書いていたからだ。東京では二十四時間開いている郵便局の「ゆうゆう窓口」が、松戸北郵便局では本局なのに閉まっていて、絶望とも腹立ちとも付かない感情を覚えた。
 小さいときから部屋に監禁されて友達付き合いを禁じられていた私は、誰に相談をして良いのか判らず、港区の担当保健師に電話をした。しかし、松戸市の人の金で生計を立てているのなら松戸市に相談してくださいと言われ、腑に落ちない私は保健所に電話をした。
 そうしたら保健所には私の前任の担当保健師がいて、生活の相談ということでとケースワーカーがいる部署を案内してくれた。その部署を訪れたのは私の通院と年金用の戸籍謄本を取ったときだったから、年金事務所に行く前ということになる。これは、母のケアマネージャーが、私の名刺が送られて来た手紙に同封されていたと言っていたこととも合致する。
 母のケアマネージャーには、私のケースワーカーと直に話したいと言われたが、ケースワーカーがいる部署に行ったら、生活保護受給者しかケースワーカーを付けないと言われ、それだけ働く意欲があるのなら喜んで力になってくれますよと、生活・就労支援センターというところを紹介して電話もしてくれた。
 バツが悪いのか、私の担当保健師が姿を見せたが、私に、働いたことはないですよね? と言って見当違いなパンフレットを渡しただけだった。この人は私が会社勤めをしていたことすら知らないのだと思うと、立腹よりも、子供のときから親に風説を流布されて理解者を作れなかった私は、自分に不利な誤った情報が流れることを怖れた。
 そして久しぶりに自宅で寝た。何か特別な感慨でもあるかと思ったが、特に何もなかった。疲れが出て翌日は起きるのが大変だったが、通院の後、一刻も早く実家に行かなくてはならないと思うとジッとしていられず、予約時間どころか、クリニックが開く、かなり前に家を出て、寒い屋外で診察開始を待った。薬局で血圧を測ったら、上が百八十で下が百三十だった。実家に向かう電車の中でヘルプマークを見せても、優先席に座っている人は誰も席を譲ってくれなかった。
 その次の日は、再び母のケアマネージャーと市の包括支援センターの人が来た。今度は前もっての約束だったし午後だったので、叔父も、きちんと身支度をしていた。他方、母は、介護サービスの利用料が高額なので、そういう制度の関係者が来るのは嫌だと言って部屋に籠ってしまった。
 しかし、母のケアマネージャーの話だと、利用料は母が主張する五分の一だという。月額と一回の利用料を勘違いしているのではないかと言われたが、そうではなく、母が都合の良いように嘘を付いていることは私には判っていた。母のケアマネージャーは、これから後も、母が恣意的にしていることを、何事も、悪気はなかった、勘違いだったと言い張った。
 来週から再びヘルパーを入れて独り暮らしできるか様子を見るので、それまでに二人とも帰ってくださいと言われた。私は、この前はロレツも回っておらずボロボロでしたよねと言われたが、それからの消耗戦は、さらに激しいものだった。
 母のケアマネージャーが帰るや否や、叔父は酒を飲み始めた。叔父と帰る日の調整をしようとしたら、何で帰らなければならないの? などと言い、つい十分前のことなのに何を聞いていたのかと思う。
 その日は母の通院で、私が同行した。診療所で母の介助をしているとき、叔父から私に酒を買って来いと電話があった。その後、母は、また三時間かけて楽しそうに買い物をし、何もせず手持ち無沙汰で母を見ているだけの私は、この時間、仕事をしたら、いったい幾ら報酬が貰えるのだろうと思った。
 さらに帰宅後、また、なかったはずの父の預金通帳が出てきた。出てきたというより母が持っていて、どうして、あると言わなかったのだと言うと、前々からあると言っていたと言う。預金が把握できないからと松戸市の法律相談を申し込んでいたのを見ていたではないか。
 そして、酔って一糸まとわぬ姿で出てきた叔父を傍目に眠剤を服み上階に上がろうとしたら、床が一面、水びたしだった。叔父が放尿していたのだ。
 そんなこんなで一段落ついたのは、私が眠剤を服んでから三時間後、午前二時だった。しかし、追加眠剤を服もうとすると、母は眠剤がそんなに早く切れるはずがないと主張し、追加眠剤を服むことを許してくれない。
 母が転倒したのは、そんな日が流れている中でのことだった。何かに躓き、アッと思った時には倒れていた。頭の上の方に家具があったので、それに頭をぶつけなかったのは幸いだったが、手を付いたので手が腫れ上がっている。
 叔父も居合わせたのだが、翌日になると全く覚えていないと言う。私は心配で日付が変わるまで母に付き合っていた。眠剤を服んでいるのに下階で音がすると目が覚め、二十分近く掛けて倒けつ転びつ下階に行くと、母は父の遺骨の前でブツブツ何か言っている。
 なんで帰らなければいけないのかと言っていた叔父は、翌朝、起きたら、書き置きをして、すでに帰っていた。母は、すっかり弱気になっていて、自分はもう駄目だと繰り返す。そして私がいて良かったと言う。
 母のケアマネージャーに電話で相談すると、そう言われて嬉しいですよねと言われる。しかし、私は、ちっとも嬉しくはなかった。急に年老いた母を見て狼狽したのか、今まで私の力にならなかったのに勝手だと思ったのか。
 母が弱気になり死ぬ死ぬと繰り返している旨を伝えると、大丈夫です、帰って寝てくださいと言われた。私は、寝てくださいという言葉に身体資本の人の実感が籠っているように聞こえた。
 母のケアマネージャーに母が一人のときにでも入れるようにキーボックスを設置して欲しいと言われ、ネットの通販でキーボックスを買った。母が洗濯機のネットが駄目になったと言うので、やはりネットの通販で買ってやると、何でも買えるの? と物珍しそうな顔をした。
 新しい通帳や書類が出てくるたびに私は市役所の支所に母の住民票を取りに行き、毎日、母の楽しみである買い物に付き合った。これも及び知らないことであったが、母は足に人工関節を入れていて荷物が持てないのだ。そして、今まではコーヒー一杯飲むのも贅沢だと言っていたのに、酒が飲みたいから付き合えと言う。
 また、叔父が帰ってからも、母は、叔父さんは倹しい生活をしている、お父さんは生前、好きなものも食べずに私に金を送ってやったと盛んに言う。
 毎日、酒を飲んでいる叔父の姿や、実家の食生活を見たり、毎月、旅行に行っていたことを聞いて、三百円の牛丼を食べるのも心苦しくなり親に伺いを立てて詰られていた私が、何か自分でも気の毒になった。親は、私がすることが不足なことではなく、私がしていることを、そもそも否定していたのだ。
 私は小中学校を首席で出、母が選んで特待生として入れさせられた高校こそ教師のイジメと家庭不和で退学したが、大検を取って入学した専門学校も全優の成績で出、大学への推薦も取ったのに、遊んでいるといって大学には行かせてもらえなかった。私は、ずっと、自分の努力不足を責めていた。
 金にしたってそうだ。私は親の金で生計を立てていることで肩身の狭い思いをしてきた。しかし、これも、当時の主治医が自分で病気にして働けなくした子供を殺す気かと言って親に出させたもので、額も母のケアマネージャーに同情される程度のものだ。
 しかし、親は私が勉強不足なことを怒っているのではなく、そもそも勉強していること自体を認めず、必要なことだろうが一円でも使えば無駄遣いをしていることになるのだ。
 無駄遣いをしていると思っている親は、わざと私に借金をするように仕向けた。毎月、四万円ちかい借金を返していて、当時の私の担当保健師に言わせると、月に六万円という生活費は生活保護受給者より少ないとのことだった。父が死んだのは、その借金を返し終えた矢先だった。
 毎日イートインスペースのあるコンビニに行っていたのは、そのような実家の環境に耐えられなかったのだと思う。午前二時近くまでテレビを観ている母に付き合い、寝ている間も母の寝室で物音がすると目が覚め、早朝からゴミ出しをしたりして落ち着いた時間を過ごす暇がなかった。
 ゴミ出しといえば、近所のゴミ捨て場に、市の指定の袋で出していなかったので回収されなかったという張り紙がしてあった。その張り紙の最後に「今日は違反の袋で出していないでしょうね。」と書いてあり、嫌な感じというより、この町で育った自分が恥ずかしくなった。そしてドキリとして張り紙に書いてあった「違反の袋」の風袋を見て、自分が出したゴミではなくてホッとした。
 叔父が帰ってから、母も少し落ち着きを取り戻し、食事は外に摂りに行って良いと言うようになった。私は朝食を実家で摂り、市役所の支所に併設されている市立図書館の分館に行った。
 この図書館は良書ぞろいで、家で本を読むことを許されなかった私は、幼少のころ近所にこの図書館がなかったら、私は読書の楽しみを知らず、それはつまり何の娯楽も知らなかったのではないかと思う。
 私が港区立図書館で借りている読みかけの本は全て揃っていて、それに加えて佐野洋子さんの対談集を借りた。西原理恵子さんとの対談で老いていった親の話を読み、暗い方にばかり考えが行った。
 このころの日記を引っ繰り返しても、短い感想がチョコチョコ書いてあるだけで、東京にいたのか松戸のいたのか、客観的な事実がほとんど記されていない。やはり記憶だけを頼ると、母が駄目かもしれないと繰り返して言い、叔父に電話をすると、本当に駄目かもしれないな…… 今度、行くときには長居できるようにするからと珍しく真剣な口調で言われた。
 私は、毎日、午前一時過ぎまで、テレビでバラエティー番組を観る母に付き合った。母は登場するタレントに異様なほどに詳しかった。私が子供のときも、母は私には午後九時のニュースさえ観せずに自分ひとりでテレビを観ていて、それらに疎い私は周囲の同級生から孤立する原因のひとつになった。
 そんな中、私が「百回オジサン」と呼ぶ人物から電話の着信があった。百回オジサンという名前の所以は、一日に百回も電話をしてきたり午前五時に私の家に押し掛けるからである。
 百回オジサンは、私の精神状態が酷く心臓が針の筵の上で転がされているような感じのときにも、父から私を脅迫しろと電話があったと、私に一時間おきぐらいに電話をしてきていた。父の書類を整理していたら父が百回オジサンに宛てた手紙の下書きが出てきた矢先だった。私の怠惰な生活を報告してくれて有り難うなどとあった。
 私には父の反感を煽り、父には私の反感を煽っていたのだが、それがバレたら自分の両親と組んで私の父から金を騙し取ろうとした。そういうことをしながら、それから何年たっても、どの面を下げてか私と遊ぼうと電話をしてきたりファクシミリを送ってきたりする。
 警察に相談すると、何回、着信があったか把握したいので着信拒否を解除して記録を残してくれと言われ、着信可能な状態になっていたのだ。警察が、何度、注意しても聞かないどころか、警察に電話をして私との仲を取り持てと言うそうだ。
 百回オジサンが自分の親と結託して私の親から金を騙し取ろうとしたとき、百回オジサンの母親に、あなたの子供が何をしているのか判っているのかと言うと、ウチの子に限って警察の注意を受けるようなことをしていないと言う。「ウチの子に限って」と本当に言う人がいるんだな、六十歳を過ぎてもウチの子なのだなと、開いた口が塞がらなかった。
 それから数日後、叔父が大きなボストンバックを携えて実家にやってきた。これで安心だと思ったら、ボストンバックから取り出したのは衣類ではなく焼酎のパックだった。叔父は実家に来るなり飲みだした。私は叔父が来たのだから帰ると言ったのだが、母が、どうしても居ろと言う。
 何度、眠剤で寝ていると言っても、夜中に大騒ぎし、私は、耳元でヤカンを叩かれているような気分だった。限界だった。実家で作業していた相続関係の書類を叩き付け、自分でやれ! と言ってタクシーを呼ばせた。
 タクシーの中では口渇や薬の作用によってフラフラだった。この辺が私の甘さなのだろうが、それでもコンビニで飲み物を買いながら運転手の話に付き合って、一時間半程度で白金の自宅に着いた。そしてタクシー代は払わせたのだからと母に着いたと電話をした。
 母は、こういうとき、鶏を絞めたような汚い声と口調を使うのだが、その声で、タクシーで帰ったのに寝てねぇじゃねぇかよぉ、と怒鳴った。しかし、実家では、毎日、汗をビッショリかいて目が覚めるのだが、何ヶ月かぶりくらいに熟睡した。
 それなのに、翌日の午前九時前に玄関ベルが連打された。何事かと思ったらマンションの管理人が背広の男二人を連れて立っている。背広の男は信託銀行系の不動産会社の名刺を出し、コンビニのコピー機に書類を忘れ、防犯カメラの映像を管理人に見せたら持ち去ったのが私だと判明したと言う。
 私は相続関係で書類を大量にコピーしていて、そのような書類があったのかどうか覚えていないし、あったとしても無意識に破棄している。
 そのときは疲労と寝不足で頭が朦朧としていたが、後になり、なんでテメェが悪いのに私が責められなくてはならないのか、なんでコンビニは防犯カメラの映像を見せるのか、なんで管理人は住民の名前や住居を教えるのかと、フツフツと怒りが込み上げてきた。
 私が、何を、そんな大量にコピーしていたのかというと、父の戸籍謄本だ。私の両親は結婚して母の実家である港区に戸籍を作っていて、私も結婚せずに同一戸籍のままなので、死亡時の戸籍謄本は容易く取ることができる。それ以前の戸籍は小田原市にあり、これも一ヶ所で済むから楽勝…… と思っていたら、同じ戸籍なのに四回も改製されているという。しかも、それぞれ一ページではない。
 港区の戸籍謄本は提出先の数だけ取ってしまったのだが、小田原市の戸籍謄本の手数料を考えると大変な金額になる。そこで一部だけ取り寄せ、法務局で法定相続情報一覧図を作ってもらうことにした。
 その翌日、私は、ケースワーカーがいる部署で紹介された生活・就労支援センターに行くことになっていた。法務局は、その近所にあり、どうしても、そのときに手続きがしたくて戸籍謄本の控えを取っていたのだ。
 意気込んで向かった法務局であったが、煩雑な手続きや手数料の納付などがあるのかと思ったら、ハンコひとつで終りだった。
 その後、生活・就労支援センターで今後の生計の相談と思っていたのだが、生活の相談というのは、生活をすべて包括的に援助するということで、とりあえず相続ですねといって、その場で法テラスの法律相談を申し込んでくれて、当日は、同行してくれるという。
 いつも思うのだが、出身が港区でなかったら自分は人生を投げ出して死んでいたのではないかと思う。実際、店頭にある商品を鷲掴みにして持ってきたり、未遂に終わったが自殺を企てたことがあったが、港区の保健師と連絡を取るようになってから、少なくとも自殺を企てることはなくなっている。
 生活・就労支援センターの帰り、私は六本木の芋洗坂にある「いきなり!ステーキ」で肉を食べた後、渋谷に行った。なぜかこのころ、食欲だけでなく、色々なことが、まるで自分の精神障害が消えたかのように普通だった。実家との往復で電車に乗っても、嫌な汗もかかず普通に通勤できそうな気がした。
 そして渋谷、これも港区ではないが、なかったら死んでいたかもしれないと思う場所である。記録はないが、この日は、好きな喫茶店で、ひと息ついたのだと思う。心臓が針の筵の上で転がされている気がしたときも、ここに来ると収まった。
 このころ、私は頻繁に渋谷に行っている。父が死んで直ぐ後、これも行きつけの床屋に行った。そして印象深いのは氷雨が降る日のことだ。
 私は自分の生活が終わって持ち物が離散するという気持ちに囚われていた。そして家にある高級ウィスキーを思った。これが、たとえば話のネタにマッカラン五十年などを買ってしまうような人の手に渡ったら嫌だなと思った。そして、やはり渋谷にある行きつけのバーに持っていくことにした。
 バスで行こうと思ったが、冷たい雨の中、ウィスキーが何本も入った袋を持って駅の反対口に出て道玄坂を上って…… と思うと気が重く、もう私を折檻するような親はいないと、再び自分に繰り返して言い聞かせ、タクシーを使うことにした。
 オーナー・バーテンダーといっても私と同い年で、彼も私と同じで彼の師匠の時代のバーに通った人間だから、名刺にはバトラー(執事)と刷っている。そして、彼の師匠と並んで、古川さん、トニーさん…… と、物故した懐かしいバーテンダーの顔が浮かんで泣きそうになってしまった。彼らに守られているような安心感に包まれて酒を飲むことは、もうないのだと思った。
 その日は酒を一口飲んだだけで吐いてしまった。そもそも、それまでの精神的な不安定さのためにヒルナミン(レボトミン)を常用していたせいかもしれない。普段、この店には、看板を過ぎるどころか翌日の営業準備が始まるまでいるのだが、数杯だけで帰ってきた。
 このころ渋谷に行ったことといえば、母の万年筆を「伊東屋」の渋谷店で直してもらったこともある。私の両親は私に色々なことをするのを禁じたように、自分たちの物を触ることもさせなかった。私は写真が好きだったのだが、親はカメラを買ってくれるどころか自分のカメラにも触らせなかった。中学校時代の担任が見かねて自分の高級一眼レフを貸してくれたくらいだ。それについても私の親は、他人にカメラを貸すなどというのはバカのすることだと言っていたのだが、そのバカは、今は教育長あたりになっているらしい。
 そんな母が私に万年筆をくれると言ったときには驚いた。しかし、私に自分の所有物を触らせないのは、決して自分がそれを大事にしているからではなく、私の自由を奪うのが目的なので、コンディションは酷いどころではなかった。私はペン先まで分解し、中性洗剤を溶かした温い湯に、数日、浸けておいた。そして、こびりついていたインクが全て取れ、インクも通るようになったのだが、どうしても、すぐにインクが降りてこなくなってしまう。
 これは修理かな…… と思ったが、買った店が判らない。私は昔、万年筆は「丸善」で買っていたのだが、経営状態とともに店や商品に愛着を持つ店員がいなくなってしまい、それは客への態度にも現れていた。それに近所に支店がない。
 普段、渋谷だったら、こういうものは「ロフト」に頼むのだが、すでにセンター街を抜ける気力さえもなく、東横デパートに入っている伊東屋に持っていった。ツィードの三つ揃い、しかもベストはラペル付き、を着た店員が色々と試みたが改善せず、ベテランと思える女性店員に言われ超音波洗浄器に掛けてくれた。
 それで直ったのだが、話は、それからである。値段を訊くと、お代はいいですと言う上に、修理でインクを消費しましたのでと、カートリッジを一本、付けてくれた。悪い気がしたので、でしたら別にカートリッジを一箱くださいと言ったら、故障が直ったと判ってからの方が宜しいですよと言われた。
 差し出がましいに似た諺を付け、執筆時に推敲するときはペン先を上に向けると乾燥しますのでと言われて、執筆なんて大それたことはしないんですと、こそばゆい気持ちになった。カートリッジを付けてくれたときには感激に近い気持ちさえ覚えたし、そういう風に、色々と感情が動いたのは、やはり渋谷の力と情緒が不安定だったからだと思う。
 それでも、東京に帰ってきて、少し平静を取り戻しつつあった。生活・就労支援センターの職員と法テラスに相談に行くことにもなっていたし、将来は徐々に自分が意図する方向に向かっているように思えた。母から電話があったのは、そんなときのことだ。
 数年前、母が入院をした。それも私が被告人として出廷した裁判に証人として出廷した父の証言として知った。このとき、父は私が法を犯すように仕向けていると言ったり明らかな嘘を付いたりして裁判官に制止されたものだが、それでも入院しているのなら連絡が取れないのは不便だろうと、私は自分が昔使っていた3G携帯電話で回線契約をし、トランシーバーがわりに母に持たせていた。
 母は携帯電話の使い方を覚えようとせず、私も半ば諦めていたのだが、初めて、その電話から着信があり驚いた。ケアマネージャーに使い方を教わったのかと、少しワクワクしたのだが、出てみたら背後で酔っ払った叔父の声がした。叔父は、私が帰ってから一ヶ月も実家に入り入り浸っていたそうである。そして母は、ひとつ覚えのように父の預金通帳を返しなさいと繰り返す。
 それから数日中に、自分の通院、生活・就労支援センターの職員と法テラスに相談、相続の件で話がしたいという証券会社や母の通院のために松戸を訪問などと予定が詰まっていたのだが、急に気が重くなった。
 私は自分の通院で不調を訴えたが、主治医は、むしろ良い兆しが見えると言う。そのときは本当かと思ったのだが、今の、昼過ぎになっても恐怖で起きられなくて活動できる時間が一日に数時間しかないという毎日との対比で見ると、たしかに症状を客観的に見るように心掛けているという主治医の言うことは正しかったのかもしれない。
 法テラスでの相談は徒労に終わった。相続の相談担当という弁護士が言うことは、ことごとく間違えていたからだ。法定相続以外の相続は、あくまで例外で、遺産分割協議書がなければ銀行も預金相続を解除しない、すなわち、土地家屋を母の物とするだけでも、そういう遺産分割協議書がなければ預金凍結は解除できないと言うのだ。法定相続情報一覧表なんて作っても戸籍謄本の代わりになんてなりませんよとも言われた。そこで相談時間は終了となった。
 それを一緒に聞いた生活・就労支援センターの職員に、明日、母親に、遺産を半分、分けてもらうよう、きちっと話をして来てくださいねと言われ、また気が重くなった。しかし、自宅に戻って銀行などに電話をしたら、銀行は、遺産分割協議書がなくても構わない、正当な相続人であることが判れば法定相続情報一覧図で十分との返事だった。
 翌日、証券会社でファイナンシャルプランナーの話を聞いて、なおさら気が重くなったうえで実家に行ったら、実家では母と叔父が酒盛りをしていた。そして遺産の話をすると、例の絞められた鶏のような言い方で、テメェは遺産をブン取るために本来なら不要な相続という手続きを作って嬉々として動いていたのだろうと罵倒し始めた。
 死亡届など出さずに自分が父の預金を使い続ければ良かったのだと主張する。預金通帳に拘っていた理由は、それだったのだ。そして、死んだお父さんの前で遺産の話など嫌だ嫌だと駄々をこね始めた。それまでに手続きした年金も生命保険も、父が死んだところで私には一銭も入らない。
 翌日、母を診療所に送り届けると、さすがに居ても立ってもいられなくて、診療所の前からバスに乗って帰ってきた。母は詰るだけ詰った相手に、今日も一緒に買い物をして美味しいものを食べましょうと言った。
 しかし、東京に帰って銀行から相続届のフォームが送られてくると、ほとんどの銀行の記入見本は振込先が配偶者半分の子供半分になっている。母に電話をすると、まだ実家に入り浸っている叔父が、背後から、お前には一銭もやらないと言え! と、けしかけている。
 またか、と思った。叔父は私には遺産を分けるように母に話しておくと言っていたのだ。大学進学のとき、叔父は私に親にはきちっと大学に行かせるように言っておくからと大学を受験させ、私は入学の申し込みまでした。しかし、叔父は両親には私のことを大学に行かせるに値しないと言ったそうで、入学金は振り込まれなかった。それと同じことを再びしたのだ。
 このことを区の精神障害者地域活動支援センターの職員に相談したところ、叔父さんは入り浸っているのではなく母が心配で一緒にいてあげているのでしょうと言われた。そのような常識で計れる家族ではない。
 銀行の相続届が揃い、母の通院に合わせて署名捺印を貰いに行った。生活・就労支援センターの職員には、署名捺印はいいですから母とよく向き合って距離を縮めてくださいと言われた。そして何かあったら謝ってくださいと言われた。距離が縮まるような関係ではないと言っても、親はあなたを愛しているから生活費を送ったりするんですと言う。
 主治医に、その話をすると、その職員には、それは治療方針に反することなので言うことを聞かないように主治医に言われたと伝えてくれと言われた。素人の浅知恵ですとも言われた。そして、実家に行っても耐えられなければ帰って来ればいいと言われた。
 実家に行くと、叔父は文字通り私の顔を見るなり逃げ出した。ウチの子に限ってに始まり、去年は本当に、そういう文字通りのことがあるのだなということを、たくさん体験した。事実は小説より奇なりというが、小説とは虚偽の事象を用いながらも真実を語っているからリアリティーがあるのであって、事実も小説も似たようなものなのだなと思った。
 叔父は実家に行く途上にはない新橋で飲んだ挙句、ウィスキーを含む一万円ほどの買い物をしてきたという。テーブルの上には半分ほど空いた国産ウィスキーのボトルがあった。そして母は、叔父さんは自分にもビールを買ってくれて優しいと言う。私が何か買っていってやると親の金を散財したと詰るのに、お前には叔父さんのような優しさがないのかと言う。
 母の通院では、血液のγ‐GTPの値が八百まで跳ね上がっていた。毎日、朝から晩まで酒盛りをしていれば当然である。私に遺産を分け与える必要などないなどと口当たりの良い言葉を並べる叔父と飲む酒は、さぞ美味かろう。
 このころになると、日記も再び付け始められている。ただ、一年ほど前から、ページをひっくり返して読むのが面倒なので、書くと同時に非公開のブログに入力しているのだが、入力が無茶苦茶である。変換以前に入力されている文字列が正しくない。とにかくストレスが激しかったことだけは確かだ。
 生活・就労支援センターの職員には、あいかわらず、主治医には対峙しない方法ではなく、どう対峙したらいいのか訊いて来いと言われている。キツくて事務ができないと言っても、それは精神的にキツいからではなく事務処理能力がないから辛いと思われていたようで、私が弁護士は書類を作らないと言うのに、さかんに弁護士弁護士と言われていることが記録に残っている。
 私の中学生の時の塾の同級生で弁護士をやっている人間がいる。大学にも行かせてもらえなかったし、勉強ができたことのメリットは、成績別で同じクラスに振り分けられた人間に、これらの職業に就いている人がいるくらいである。
 彼には過去にもいろいろと迷惑を掛けていて、愛想を尽かされているのは承知している。実は、コンビニのイートインスペースで手紙を書きまくっていたとき、彼にも電話か手紙はしていたはずだが返事がなく、しかし弁護士と言われると彼しか思い付かないので、改めて手紙を書いてみた。
 そうしたら折り返し電話があり、どなたが亡くなったの? と言われ、やはり読まれていなかったと思ったが、私は少なからず驚き喜んだ。そして、弁護士といっても手紙を書いたり電話をするのが精一杯だよ、それで相手が応じなければ裁判所に持っていくしかないし、そうすると預金は凍結されたままだから使い込まれることはないけれど、一年二年は当たり前に掛かるよと言われた。
 私は、とりあえず熟慮してみると言って電話を切った。実際、考えに考えて、何日も、ほとんど眠れず、結論を出した日も午前三時まで考え込んでいた。結局は明日の百より今日の五十である。私の手元にある金は大卒の初任給ひと月分くらいしかない。
 土地家屋と父の預貯金は母が全て取り、私は自動車一台分くらいの有価証券で手を打つことにした。そして、午前三時だが母に電話を架けてみたら、母は普通に電話に出た。
 金持ち喧嘩せずではないが、それからの母は上機嫌だった。本来は不要な手続きだから実家のある町で相続の手続きなどしている人間など誰もいないと言っていたのに、近所の人にはサービス価格でやっていた税理士がいたなどと平然と話す。その間も、私は実家にいて、電気やらガスやらの請求書が来るたびに請求元に電話をして名義変更の手続きをした。
 実家にいたのは書類を実家にしか送れないというところが多かったのと、父の口座から引き落とせなかったという督促状を持って金融機関に払い込みに行かなければならなかったからだ。母は歩行困難なので口座振替の手続きも取らねばならなかった。
 それが一段落すんで東京に戻り、銀行回りなどをした。今になると何をそんなに悩んでいたのか判らないが、話としては単純なことだったのだと思う。精神障害者地域活動支援センターに電話をしては、職員に、何回、同じことを言わせるんだというようなことを言われたと日記に付けてある。保健所にいる前任の保健師に電話を架けてみると、今は別の担当保健師がいるので、立場上…… と言われ、それでも、相続など一生に一度しかないような大仕事をしているのだからと言われた。今の担当保健師に電話をすると、今度は松戸市に相談してくれではなく法律相談に行ってくれと言われた。
 他方、母は正月に私が実家に遊びに行くことを、ひと月以上前から楽しみにして、何度も電話を架けてきた。私は二十五年以上、松戸ではなく東京で越年をしていて、何を今さらという感じがしなくはない。一月四日が母の通院だから、大晦日に行って通院に同行したら帰ってこようと思っていた。
 私の、そういう心づもりを見て取ったら、母は私を長居させるために大騒ぎをし始めた。預金が凍結されて国庫に入るなどと訳の判らないことを口走り始めたのだ。最初は父の預金のことを言っているのかと思い、母の口座に振り込まれているので国庫になど入らないと言って聞かせるのだが、自分の預金だと言う。根拠を求めるとATMで金が降ろせないし通帳の記帳ができないと言う。
 叔父さんは、あれだけ入り浸っていたのに帰ったら電話一本も寄越さないと言いながら、叔父も呼んでくれとも言う。断っても引かない。形だけ叔父に電話を架けてみるが、叔父も発信者が私だと出ない。電話をしたけど出なかったということで放っておいた。
 日記を見るとシャワーを浴びるのも困難で外出するから無理して浴びるという感じだったようなのだが、今シーズンは一本も観られていない民放の連続テレビドラマは欠かさず観ていたようである。認知症を扱ったドラマについての記述があり、認知症に罹ってからの余生をどう描くのだろうかと思っていたら一年後に肺炎で呆気なく死んだとあって羨ましいと書いてある。
 結局は、母のケアマネージャーにキーボックスの番号を母に教えてしまったので変えて欲しいと言われていたこともあり、十二月の二十七日木曜日、自分の通院の後、その足で松戸に向かった。
 クリニック最寄りの田町駅から、松戸市小金原の実家まで、ドアツードアで一時間三十分である。自宅からだと、さらに掛かる。実家に着いたのは午後五時で、明かりが灯っていなくてドキッとする。さらに母が庭に出たきり戻ってこないので探しに出ると、転倒して起きられなかったという。色々とハラハラさせられたのだが、本人は至って呑気である。
 翌朝は疲れが出て銀行が開いている時間には起きられなかった。しかし、やはり叔父がいないということの意味は大きいようで、いたって事務的に父宛に来た書類を捌き税金の督促状を持ってコンビニに払い込みに行ったりしていた。
 やっと前年から親に強制された百回オジサンとの越年をしなくて済むようになり、親に故意に作られた借金も返し終え、今年こそ心穏やかに年を越せると思っていたのだが、その平穏な越年を叔父に壊されては叶わないと思った。
 しかし、母は、また叔父を呼ぶと言い始めて聞かない。そして叔父が私の電話に出ないと判ると、今度は、やっと使えるようになった自分の携帯電話で叔父に電話を架けまくった。私が父との連絡用に持たせた携帯電話だが、こんな不本意な使い方をされるとは思わなかった。
 携帯電話といえば、父が携帯電話のバッテリーが一日も持たないというので買ってやったことがあったのだが、実際は数日に一回、数時間しか充電していなかったとのことだった。自動車のラジエター液か何かもマックスの線を超える線まで入れてシャーシを腐食させてしまったこともあり、父の行動は、すべて思い込みの上に成り立っている。
 叔父も、私がいると想像が付くからだろう、電話には出なかったのだが、さすがに十数コールもされ電話に出た。それでも大晦日には来なくて、やっぱり私がいると居心地が悪いのかと思って安心したのだが、元日になってやってきた。
 そして、今度は居間の絨毯の上で服を着たまま放尿を始めた。そのたびに母が服を着替えさせるのだが、何度も放尿を繰り返し、私は母の面倒を見て午前三時過ぎまで眠れなかった。さすがに私も洗い物をする気は失せていた。そして叔父は、午前六時には私が寝ている真下の部屋で、大音量でテレビを付ける。母は私には出さない食事を叔父には出す。
 我慢できない。帰ろうとしたら、銀行はどうするのだ、通院はどうするのだと詰め寄る。
「だったら、あの男を追い返せ!」
 私は数年ぶりくらいに怒鳴った。そうしたら、もう呼ばなければいい話でしょうと、か細い声を出す。数週間前から呼ぶなといっているではないか。それでも、ヒルナミンを齧って何とか正月四日まで実家にいた。悪寒がするかと思えば身体が火照り、身体の色々なところに無理が来ていた。
 開くや否や、銀行印も持たせて母を銀行に連れて行く。そうしたら普通にATMで記帳もできるし金も降ろせる。またやられた……。そして、キーボックスが開いていたのだが、母はケアマネージャーが開けていったのだと言い張る。母のケアマネージャーに、新しいキーボックスの番号と告げるのと併せてその話をすると、それは単に母が勘違いしているんですと言われる。
 もう、ここにはいられない。一刻も早く、その場を離れたかった。この足で帰るからと言った。そうしたら、母は、また、私の通院はどうなるの? と甘えた声を出す。叔父さんに一緒に行ってもらえと吐き捨てて帰ってきた。日記を見ると、その日も私は食事を作ってもらえず、駅ビルの「ドトールコーヒー」で食事を摂って帰ってきている。
 それなのに、今年に入ってからも、母からは、あまりに来ないで孤独死していたらどうするんだなどと引っ切りなしに電話が架かってくる。孤独死については私の方が確率が高い。実際、自殺未遂をしたときも、ひと月も発見されなかった。母のケアマネージャーに電話をすると、ヘルパーも入っているし孤独死などしないから大丈夫ですと言われた。
 生活・就労支援センターの担当職員が替わって、弁護士弁護士と言う人ではなくなり、今度は弁護士ではなく、希望どおり税理士に相談に行った。そのとき、その職員は、母にできるだけ会わないで済む方法はないかと税理士に訊いた。私としては意識していないのだが、そのときを含め、話題が母のことになると私は激高しているとのことだった。また、センターにいるときも母から頻繁に電話があったのだが、そのときも電話の発信人を見て母だと判るとビクッとしていたとのこと。
 自分としては、そんなものは慣れっこになっていたと思っていたが、やはりストレスに感じていたのかもしれない。
 少しは気持ちに余裕を持とうと趣味のことをすることにした。カメラが趣味で総合光学機器メーカーに転職したこともあるくらいで、カメラをメンテナンスに出すことにした。その、カメラのサービスセンターで事件を起こしてしまった。
 カメラをメンテナンスに出したくらいだから、そこで氏名と連絡先を書いている。なので、そこで何かをすれば私だということが判るにも関わらず、私は、ごく自然に、展示品のカメラアクセサリーを万引きしてしまった。やってしまってから、非常に焦った。
 主治医に相談したが、それでも抱え切れず、精神障害者地域活動支援センターの職員に相談をした。そうしたら、あなたのような人は他人の財布から金を抜いても何も感じないと言われた。この人は理解ができないのだなと思い、主治医に相談しているので結構ですと言って電話を切ろうとした。そうしたら、ちょっと待て、あなたも、そういう道徳心を起こさせるカウンセリングを受けさせない医者も頭がオカシイ! と言って電話を切らせない。
 そもそも道徳心がなければ罪悪感など覚えないわけで、私の主治医の頭がオカシイとしたら、その職員は、そんなことにも考えが及ばないガキである。考えてみれば、この人は、以前も、鬱など朝起きて光を浴びれば治りますと言っていた。しかし深い話をしなくなったせいか、その職員は今は穏やかに話をする。
 そして新宿警察署の刑事課の警察官から電話が来た。私は弁護士の友人に仕事として頼まれてくれないかと相談した。友人には、そんなことに金を使っていたら、お前が相続する自動車一台分くらいの金額なんて、すぐになくなるぞと言われた。そして生まれて初めて弁護士と打ち合わせというのをした。
 母のケアマネージャーに、そのようなことがあるので逮捕・勾留されるかもしれないし、前科もあるから懲役の実刑判決を受けるかもしれないと伝えた。そうしたら、そんなこと、もう止めましょうよと言われ、どいつもこいつも道徳心がないとか好きで法を犯すと思っているのかと思うと腹が立った。
 最初、警察官が電話を架けてきたとき、実家に通っているので直ぐには行けないと言うと、実家は松戸だと聞いた上で、新宿警察署まで、どれくらいの時間が掛かるかと訊かれた。私が二時間と答えたら、松戸から二時間も掛かるかと言われ、かなり厄介な人だと思っていたのだが、電話での印象とは逆に穏やかな人だった。
 私は抗精神薬で口渇が酷いのでペットボトルの飲み物を持参していた。警察官を待ちながら、廊下で、それを飲んでいたのだが、現れた警察官は、ゆっくり飲んでからでいいですよと言って待っていた。
 取調室に連れて行かれ、具体的には何か忘れたが、やはり欧米でいうレディーファースト的な対応を受けた。なぜ呼ばれたのか判るかと訊かれ、カメラアクセサリーを盗んだ件ですよねと言ったら、居直らずに反省する気持ちが感じられると言って穏やかに話を始めた。途中、他の警察官が取調室の扉が開いているが良いのかと訊きに来たが、その警察官は取り調べではないと答えた。
 友人の弁護士が言うように、犯歴照会を行なったら前科が出てきたと言う。前回は三ヶ月も拘留され苦痛を味わったのに、それから三年しか経っていない、これで無罪放免としたら、反省する期間は、それよりも短くなると思うので、警察としては懲罰を与えたいと言う。
 前回は、出廷した父が証言したように、父が私を経済的にも精神的にも追い詰め、私は法務省に保護されたいという気持ちが強かったので、ちょっと警察官の言うことは違うかなと思った。警察官は、そのとき初めて私が障害者手帳を持っていることに気が付いたようで、三年というのも違う気がするし、どうも、その犯歴は不確かなようだ。
 しかし前回の裁判のことになると、その都度、父の態度が鮮明に思い出される。私を苦しめなければ駄目だとエキサイトし、裁判官に制止された。まるでフィルムかディスクに記録されたように鮮明に画が浮かぶ。裁判は父が他に嘘の証言をしたことも露呈し、父が出廷したことは情状酌量よりも逆の方向に作用したのだが、母は父から裁判官は父を擁護して私を一方的に非難し厳罰を下したと報告を受けたそうである。
 さて、今回のことだが、警察官は、今回は被害者が被害届けを頑として出さないので、窃盗は親告罪であるから立件できないと言う。理由を問うと、顧客名簿を見ると古くからのユーザーで、しかも昔の物を大切に使っていて、そのような顧客に懲罰を与えることは望まない、これはサービスセンターだけでなく法人としての意向であると言われたとのことだ。
 警察官には、この足で謝罪して恥を掻いてきなさいと言われ、日を改めて、きちっと謝罪に行こうと思ったのだが、ラフな格好で謝罪に行った。そうしたら恥など掻かされない対応をされた。友人の弁護士は、大企業が、そんな些末なことに構ってはいられなかったのだろうと言うのだが、私は銀の燭台の存在を信じた。
 このときも、母は私が懲役を食らったら誰が自分の面倒を見るのかなどと罵詈雑言の電話を架けてきた。非難することの全てが自分に関することばかりで、私を気遣う言葉など何ひとつなかった。私がストレスを掛けないでくれと言うと、何がストレスだと言うので、例えば正月の事だと言うと、お前が正月を楽しみにして叔父さんを引き連れてきたのではないかと、また事実を都合よく曲げて私を詰る。
 他人様に迷惑を掛けたからではなく、親に恥を掻かせたからと怒鳴られた。このことも、他人に話すと、そういう親かという答えが返ってくるのが多数なのだが、やはり中には、きっと、自分のことで精一杯だったんだよと母を擁護する声がある。こういう人がいるから、私が子供のときに親に嘘を付かれて色々されたときも、親が嘘を付くはずがない、子供のことを思っての行動だったで済まされてしまったのだ。
 自己中心的といえば、先日、実家の隣人から電話があった。実家の冷蔵庫のアラームが鳴っていたと言う。それを知らせようと私の家の玄関ベルを押しても出ない。そこでドアに手を掛けたら鍵が開いていたので警察を呼んだと言う。
 今ひとつ、何を言おうとしたいのか判らない電話だった。それを訊くと、家族なのだから頻繁に様子を見に来るべきだと言う。何事に対しても腹が立っていた私は、家族家族と仰いますが、あなたは高校時代に殴る蹴るされた上に精神を病んだら家を追い出されたのに隣人として何かしましたかと言っていた。これから迷惑を掛けられては困ると言いたいのだろうと思ったが、後に実家にいて過労で寝ているときも、回覧板を持ってきて、こちらが苦しいのは見れば判るのに延々と回覧板の内容を説明した。単に御節介なようだ。
 母は勝手なもので、あれだけガンガン電話をしてきたのが、こちらの電話にも出なくなった。税理士を使うと言ったら、そんなことをしたら税金の所在が明らかになって納税しなくてはいけなくなる、督促が来ても放っておけばいいと言うので、それを私が説得しようとしたからであろう。
 しかし、向こうは土地家屋を入れると数千万円ちかい資産を相続しながら、なぜ自動車一台分くらいの金額しか相続しない自分が、こんなに積極的に動かなければいけないのだ。大学とはいわない、高校くらい出してくれれば恩は感じただろうが、親との思い出は、恩などなく、すなわち責められ虐げられた思い出である。

 闇の中から意識が浮き上がってくる。

外では人々が活動する音が聞こえ、もう、いい時間であることが伺える。しかし、起きようと必死に身体を動かそうとするが動かない。意識で抗えるものならいいが、眠いわけでも億劫なわけでもない。どう足掻こうが夜も付けたままの腕時計すら見ることができない。そのときの感覚というのは焦りではなく恐怖だ。悪い事態ばかりを想定し、今、地震があったら死ぬだろうと思う。そう思いながら、それもいいなと思う。

 それから、数度、意識を失い、最終的に起きたのは午後四時だった。薄い意識と戦いながら、それでも何か口にしなくてはならないと思い、部屋着のまま、やっとの思いで自宅マンションの一階にあるコンビニへ行く。それを、一日中、玄関の前でブラブラしているマンションの自治会長がジロリと私を射すくめて壁に追いやり、文字通り「ヒヒヒ」と笑う。「どうせ服も着替えず部屋でゴロゴロしているんだろう、飯も作っていないんだろう」と言う。

 自分の努力が何かの成果を生まなくても、誰かに頑張っているねと言われるだけで報われる気がする。そして、自分の人生には、つくづく、それがなかったなと思う。毎日の苦しさに加え、精神に障害を負うまで努力を否定され続け、障害を負って何もできなくなったら障害を負ったことさえも非難される、もう、そんな人生にはうんざりだった。うんざりしながらも、それを諦め切れない自分がいる。