「私の話2019」

私小説です。

一・私の話

 先日、父が死んだ。私には兄弟姉妹がいない。親戚も母の弟である叔父が一人いるだけだ。そして、父が倒れたのは、幸か不幸か二十五年ぶりに親戚一同が会した二日目のことだった。その翌朝、父は息を引き取った。
 父が倒れる前日、私は東雲の都営住宅に住む叔父を訪ねていた。今後のことを話したいので来てくれと言われていたのだ。叔父の家に来るのは二度目、上がるのは初めてだった。窓の下には高速道路が走り、その向こうには東京ゲートブリッジが見えた。
 叔父は、私に、私を受取人とした三十万円の生命保険証書と戸籍謄本を渡した。半端な額だなと思った。何年も前に取得した戸籍謄本なんて有効ではないと言うと、参考に取っておけと言った。そして、それで自分の葬式を上げてくれと言い、墓の話を始めた。
 私の母方、すなわち母と叔父の両親の墓は、中央線の高尾駅ちかくにある都営八王子霊園にあり、私が幼いころ両親に連れられて車で何度か墓参りに行ったことがある。母は、叔父が管理費も払わず放置していたため、危うく無縁仏として処理されてしまうところだったと文句を言っていた。
 そして、叔父は、それは母方の墓だから、父はどういうつもりでいるのか訊きたいので松戸にある私の実家に行きたいと言った。以前から私と一緒に松戸に行きたいと言っていたのだが、私は実家を追い出されてから最近まで、二十年以上、何度、親に電話をしてもガチャンと切られ、訪問しても門扉も開けずに追い返されることが続いたので、行くのだったら約束をしない方が良いと言ってあった。
 私の実家は、松戸といっても、千代田線からの直通電車しか止まらない、常磐線の北小金駅から、さらにバスに乗ったところにある。りんかい線から京葉線に乗り継いで行くのと有楽町線から千代田線に乗り継いで行くのと、どちらが良いだろうという話をして、結局は有楽町線に乗り有楽町駅から日比谷駅に乗り換えた。
 一日中ベッドに横になって酒を飲んでいる叔父は、七十六歳という歳にしても足腰が衰えていて、日比谷駅での乗り換えは一苦労だった。
 そして、北小金駅に着くと、土産に果物を買いたいと言う。もう、駅前に商店街があってケーキ屋と果物屋が並んでいる時代ではないと言っても、目の前のスーパーマーケットで梨を買った。そして、ビールが飲みたいと言うので、私が缶ビールを買ってきて店内のイートインスペースで飲もうとしたところ、酒は止めてくれと言われ、ペデストリアン・デッキのような場所で飲んでから実家に向かった。
 その後のドタバタで、よく覚えていないが、叔父の家を出たのが遅いうえに北小金駅前で時間を食ったので、実家に着いたのは、いい時間になっていたのだと思う。墓の話になると、父は新聞の切り抜きを出してきて散骨が良いと言い、八王子霊園の墓については、名義が叔父のままか、管理費を払っている母になっているのか、東京都に確認しようということで呆気なく話が終わった。
 そして、父は、時間が遅いから飯を食って泊って行けと言った。最近、私もやっと実家に上げてもらえるようになったが、いつも早く帰れと言われるので、叔父がいると、こうも待遇が違うものかと驚いた。私と父は二階のそれぞれの自室で寝た。
 翌早朝、私は外から誰かが呼ぶ声で目が覚めた。私は眠剤で寝ているので、薬が残っている間はフラついて起きられない。一階には母もいるし、二階にしても父がいる。そう思っても、一向に誰も出ない。
 仕方なく私が下階に降りていくと、隣の家のご主人が、お父さんが心肺停止の状態で倒れていて、今、救急車を呼んだからと言う。この人が隣の家のご主人であることも、前日、母と二人で歩いているところに、偶然、出会ったから知った。
 私が外に出ると、すでに救急車が来ていた。しかし、私が最初に思ったのは、心配ではなく、親が「飼っている」とさえいう私の生活が終わることへの恐怖と、自分の人生に良いことなど何もなかったという絶望だった。私から遊びを奪い勉強を奪い仕事を奪い、精神に障害を負うまで苦痛を与え続けて、やっとその手を緩めた矢先なのにという苛立ちだった。
 母も一緒に救急車に乗せられたが、本人にとっては、それは甚だ不本意だったらしい。病院に着いても子供のように駄々をこねている。私がカテーテル検査の説明を受け、同意書にサインをしようとすると、それは延命治療の同意書だからサインをするなと阻止しようとする。足手まといにしかならなかったので、叔父に電話をしてタクシーで来てもらった。
 待合室というか待機所のようなところで、長い間、待たされた。布団を敷いて泊っている人もいて、声が煩いと何回も注意された。しかし、母も叔父も一向に気に留めず黙ろうとしない。私は薬による口渇で何度も院内のコンビニに飲み物を買いに行った。
 長い時間、待たされた後、私たちは、昔ならシャウカステンなどがあったであろう、机とパソコンがある部屋に通され、医師の説明を受けた。救急車には医師も同乗していたとのことで、私が回復したら麻痺が残りますかと訊いて回答があったのは、相手が医師だったからなのだなと思った。
 どのような訊かれ方をしたのか忘れたが、私が積極的な治療はしないでくれと言うと、では心停止をもって死亡としますと言われた。そして、病院に泊まって行かれますかと言われ、あぁ、先は長くないのだなと思った。しかし、叔父は、さっさと食堂に行き美味い美味いと言いながらラーメンを食べていた。
 私の携帯電話は絶対に繋がるようにしてくれと言われた。それなのに叔父は暢気なもので、帰りに、実家から歩いて三分のスーパーでタクシーを待たせて酒を買った。その間に、メーターが、二千円、跳ね上がったのを覚えている。
 叔父は実家に戻ってからも、酒を飲んで幸せ幸せと繰り返している。私も、一緒に酒を飲むというより呷った。そして、叔父は、もう何十回と私の部屋に泊まっていると言い、私を父の部屋に追い遣って、自分は私の部屋で寝た。
 ずっと実家に上げてもらえなかった私は、どうして昔から、こんな叔父が息子の私よりも寵愛されるのだろうと日頃から疑問に思っていた。父は思い込みが激しく、可愛いと思った人間は何をしても可愛く、憎いと思った人間は、どんなに優しくされても憎いのだ。
 翌日の午前二時前、私は携帯電話の音で叩き起こされた。病院からの電話で、三十分で来てくれと言う。私は叔父と母を叩き起こしたが、叔父は、お前、ベッドから落ちたろうと笑っている。私は電話を取るのに夢中で、ベッドから落ちたかどうか覚えていない。しかも眠剤が効いていて一回目のコールで電話が取れず、かといって代表番号からだったので折り返すわけにもいかず、かなり必死になっていた。
 母を起こして外出の準備をさせようとしても、やはり叔父と同じで危機感が全くない。家を出るのに二時間以上かかったのではないか。タクシーを呼ぼうと言っても、近所のタクシー乗り場まで歩くと言って聞かない。
 雨の中、数百メートルしか離れていないタクシー乗り場に行くのに十分以上かかった。そしてタクシーはいなかった。タクシー乗り場は交番の前にあるのだが、叔父はパトカーで送ってもらうよう警察官に交渉してこいと私に言う。
 結局、病院に着いたのは午前六時前だった。すでに父は亡くなっていたが、母は、それを見て、容態が持ち直したようだと言っている。前日の医師や看護師の説明を理解していなかったのは腹立たしかったが、私は、理解していなかったから急いで家を出なかったのだと自分を納得させようとした。
 病院からは、すぐに葬儀屋に電話をして遺体を引き取ってくれと言われた。私は、物心ついたときには祖父母は全員、他界していたし、親戚もいないので葬儀の経験もない。叔父を頼ろうにも、叔父は相変わらず我関せずという感じだ。
 市立病院だから市の指定の業者なのだろうか、葬儀屋の一覧と、それでは不十分だろうからと電話帳を渡された。最初は大手の業者に電話を架けたが、料金が不明確な上に遺体の保管と葬儀・斎場は別の係になるという。
 結局は実家の隣駅にある個人の葬儀屋に決めた。きっちり価格を出してくれたことと、一人で最初から最後まで面倒を見てくれることが決め手になった。隣駅にしたのは、母が近所は嫌だと言ったからだ。
 葬儀屋は、すぐにやってきた。いつ電話が架かってくるのか判らなくて、それから急に忙しくなる仕事も大変だなと、自分のことより葬儀屋のことを案じた。棺桶がストレッチャーの横に付けられ、葬儀屋と看護師と私で遺体を棺桶に入れた。
 看護師は、まだ若い女性だった。こんな重い遺体を、よく軽々と持ち上げるなと顔を見たが、その顔は凛として美しかった。預かっていた荷物を返してくれて、私が伝票と相違ないことを確認してサインをしたのだが、その荷物は、その後、目にしていない。
 看護師は玄関まで私たちを送ってくれた。そして私が父のために買ったものを病棟に寄付したいと言うと快く受け取ってくれた。しかし、後から私たちを追いかけてきてシェーバーを出し、これは高価なものですからお使いになってくださいと言った。私には、葬儀屋や看護師など、疲れを顔に出さない人たちが逞しく見えた。
 翌日の葬儀は午前十時からだったと記憶している。私は日記を付けていて、その資料としてライフログのようなものを書いているのだが、日記もライフログも空白である。ただ、葬儀屋が、あまり早い時間も何ですからといって、空いている時間の遅い方を取ってくれた。実家に来たままの格好で、私は真っ白なリネンのパンツにポロシャツという出で立ちで葬儀に参列した。
 その日は私の通院日だったから、実家に戻るなり田町のクリニックに行った。私の主治医は、父は私に悪い影響しか与えていなかったので、これで人生が好転するかもしれないと言った。そして、私は白金の自宅で着替えを取り、再び実家に取って返した。
 それからは、とにかくドタバタしていた。日記を読んでも役所を駆けずり回ったとしか書いていない。覚えているのは年金事務所に行ったことだ。葬儀屋に不正受給には厳しいから早めに手続きしてくださいと言われていたのだ。
 必要な書類が多いので電話で確認してから行ってくださいと言われていたのだが電話が繋がらない。国の「ねんきんダイヤル」に架けたら、その場で年金事務所の予約を取ってくれた。代理人が手続きできるというが、母が自分で行くと言って聞かない。
 しかし、家を出るべき時間になっても、母がモタモタして出て来ない。さらに、年金事務所まで歩くと言う。年金事務所は隣の駅の傍にある。電車だと駅構内の移動を含めて十分程度で着くのだが、歩くと三十分以上かかる。体力が落ちている叔父の歩く速度は時速三キロメートルない。母も時速四キロメートル程度だが、叔父を待たずにスタスタ行ってしまう。
 三人の中で歩くのが最も遅い叔父の尻を叩くようにして母を追う。道を知っているはずの母は同じ道を行きつ戻りつしているが、私は叔父から目が離せないのでスマートフォンで調べる暇がない。
 何とか約束の時間ちょうどに年金事務所に入った。書類を書いて呼ばれるのを待つ。ブースに入って手続きをしたのは私ひとりだったのに、母は、こんな面倒なことは嫌だとゴネる。
 母の住民票が足りず、母を連れて最寄りの市役所の支所に住民票を取りに行く。母は自分がそれで良いんだと言って写真入りの身分証明書を持たないので、その場で委任状を書かせて私が母の住民票を取り、年金事務所が閉まる前に母より早く戻った。
 郵送でも良いと言われたが、手続きが煩雑になるし、実家と最寄りの支所を往復するのと、年金事務所と最寄りの支所を往復するのでは、距離は変わらない。なによりも一日も早く手続きを終わらせたかったので、当日、再び申請に来ると言ってしまった。
 年金事務所で叔父が待っているはずなので母を迎えに行かせようと思うが、電話にも出ないし年金事務所にもいない。私は受付で書類を渡し、母と待ち合わせている駅に向かった。母はおらず、私は支所までの道を母を探しに戻った。
 やっと叔父が電話に出たと思ったらビールを飲んでいたという。三人が落ち合ったときには、私はヘトヘトになっていた。私は、朝から食事どころかコーヒー一杯、飲ませてもらっていないので、駅の蕎麦屋に入ろうとしたら贅沢だと言われた。
 来るときとは違って別に急ぎではないのに、帰りは電車に乗った。そして私は、降りた駅に併設されているイートインスペースのあるパン屋に、力づくで止めようとする母を振り払って入った。私は、もう、殴られたり、家庭内暴力だと嘘を付かれて百十番通報された子供の私ではない、そう自分を納得させるのにも、意外と思い切りが要った。
 そして、疲れて一刻も早く帰りたいと言っていた母は、私を付き合わせて三時間かけて買い物をした。叔父は、ひとりで買い物をして帰ってしまった。買い物の最中に叔父から早く帰ってこいと電話があった。コーヒーを飲むのすら贅沢だと言っていた母は、叔父を待たせたくないといって帰りにタクシーを使った。
 帰ってからは父の入院から続く酒盛りだった。私も、いくら医者に止められていていようとも、飲まねばやっていられなかった。母と叔父は、父が子供を嫌いだったという思い出話をしていた。自分の子供まで嫌いとはねと笑っていた。
 母が銀行に行くと言って聞かなかったのは、その翌日のことだと思う。私が、死亡届を出したら預金が凍結されて金が降ろせなくなるし他に必要な書類もあると言ったのだが、それでも行くと言う。
 私は、母の住民票を取るた、に母が寝ている間に市役所の支所に行き委任状のフォームを取り、母が起きてからそれを書かせて再び支所に行った。実家を出たのは明らかに銀行が閉まっている時間なのだが、気が済むのならと思い付き合った。
 しかし、母は、やはり駅前のスーパーマーケットで長時間の買い物をした。母のケアマネージャーに言われていたので、ポイントカード代わりに持っていたクレジットカードをプリペイドカードに替えさせた。クレジットカードのリスクを教えても、カードにサインもしておらず、そもそもクレジットカードが何か判っていないので説得に時間がかかった。
 この前後のことを私はほとんど覚えていない。それは別に今回のことに限らず、五十年近い自分の半生に起こったことの記憶が、起きた間隔も不確かなら時を追っても考えられないので、病気のせいか向精神薬のせいか、おそらく器質性のものだろう。
 私は先日、実家に居たたまれなくなり自宅へ帰ってきたのだが、そのことを私が住む港区の保健師に相談したところ、父が死んで実家にいたときも母から距離を取ってコンビニに行っていたではないですかと言われて、そんなことがあったなと思う始末だ。
 順を追って考えると、銀行に行こうとしたときには母のケアマネージャーとクレジットカードの話をしているのだから、コンビニに行っていたのは、それ以前ということになる。私は、母のケアマネージャーからの今から行きますという電話をコンビニのイートインスペースで、くつろいでいるときに取ったからだ。
 母は、未明といえる時間まで起きていて昼過ぎまで寝ているという生活をしているので、朝のゴミ出しは私がしていた。他方、叔父は、酒を飲んで早々に寝て、夜中に大騒ぎをし朝は早くから大音量でテレビを付ける。私も早めに休もうと父の部屋に上がると、母は、ひとりで酒を飲んでいるのだろうと不愉快なことを言う。
 このころの私は、さかんに洗い物ばかりをしていた。三人で酒盛りをしているのだから食器の量は結構なものだったが、私は、まったく苦にならないどころか楽しかった。同じ起きているなら、どうやって洗おうか工夫していれば心の闇に落ちずに済んだ。それでも足りず、冷蔵庫の中の棚まで洗った。ふと見るとコペンハーゲンのカップが入れ歯入れになっていた。
 それは冷たい雨が降る夜だった。あいかわらず朝からコーヒーも飲ませてもらえない私は業を煮やして実家を飛び出した。もう殴られても怖くない、もう警察を呼ばれても警察官は親の言うことを盲目的に信じない、私は四十六歳になって、そのとき、やっと、そう居直れるようになった。
 どこか休めるところを探したが、三十分以上歩いても喫茶店ひとつなかった。やっと見付けたコンビニで、私はコーヒーを買い店の入り口で飲んだ。そうしたら、そこは飲食する場所ではないと追い払われた。それが悪いことだと知りつつ、私はゴミ箱を蹴飛ばさずにいられなかった。
 それから、さらに彷徨い、イートインスペースのあるコンビニを見付けたとき、私は砂漠の中のオアシスという陳腐な表現では表せないほど感激した。あまりの嬉しさで店員を称賛したら戸惑われた。
 親の金だと思うからホイホイと使えるのだと言われても、さすがにそれは説得力を持たなくなった。翌朝、私は起きて身支度をし、さっさと、そのコンビニ行き、朝食を摂りながらボンヤリとしていた。スマートフォンは、すでにデータ通信量を使い切っていて、SNSを見ることはできなかった。
 母のケアマネージャーから電話があったのは、そのときのことだ。ホーカツの人の予定が空いたので今から向かいたいと言う。ホーカツが何か判らなかったが、父が死んでから初めて感じる安堵感を邪魔されたくはなかった。後日では駄目かと言うと、その日しか空いていないという。
 結局、私は、文字通り一口も飲んでいないコーヒーと食べかけのサンドイッチを抱えて実家に戻った。そして初めて母のケアマネージャーとホーカツの人に会った。ホーカツとは、市の包括支援センターのことだった。
 母のケアマネージャーは、両親が私には絶対に連絡をしないようにと強く主張するので連絡ができなかったと言う。「絶対に」・「強く」と副詞が二つも入っていて、よほど強く言われたのだろうなと思った。
 私も、両親に電話をするとガチャンと切られる歳月が続いたので、両親が市の介護サービスを使用していたことすら知らなかった。最近は上げてもらえるようになったと書いたが、最後に来たときは、まだ実家には車があり母は平気で運転をしていたから、何年前だろう。
 母は、ベッドから半分落ちたまま寝ていて、叔父はまだ寝起きだった。ケアマネージャーさんたち呆れてるんだろうな…… と思い顔を見たら、意外と普通なので拍子抜けした。
 なぜ、港区の保健師が、私がコンビニに逃げていたことを知っているのかというと、誰かに伝えなければ抱え切れなくなっていた私は、考えられる至るところに電話をして手紙を書いていたからだ。東京では二十四時間開いている郵便局の「ゆうゆう窓口」が、松戸北郵便局では本局なのに閉まっていて、絶望とも腹立ちとも付かない感情を覚えた。
 小さいときから部屋に監禁されて友達付き合いを禁じられていた私は、誰に相談をして良いのか判らず、港区の担当保健師に電話をした。しかし、松戸市の人の金で生計を立てているのなら松戸市に相談してくださいと言われ、腑に落ちない私は保健所に電話をした。
 そうしたら保健所には私の前任の担当保健師がいて、生活の相談ということでとケースワーカーがいる部署を案内してくれた。その部署を訪れたのは私の通院と年金用の戸籍謄本を取ったときだったから、年金事務所に行く前ということになる。これは、母のケアマネージャーが、私の名刺が送られて来た手紙に同封されていたと言っていたこととも合致する。
 母のケアマネージャーには、私のケースワーカーと直に話したいと言われたが、ケースワーカーがいる部署に行ったら、生活保護受給者しかケースワーカーを付けないと言われ、それだけ働く意欲があるのなら喜んで力になってくれますよと、生活・就労支援センターというところを紹介して電話もしてくれた。
 バツが悪いのか、私の担当保健師が姿を見せたが、私に、働いたことはないですよね? と言って見当違いなパンフレットを渡しただけだった。この人は私が会社勤めをしていたことすら知らないのだと思うと、立腹よりも、子供のときから親に風説を流布されて理解者を作れなかった私は、自分に不利な誤った情報が流れることを怖れた。
 そして久しぶりに自宅で寝た。何か特別な感慨でもあるかと思ったが、特に何もなかった。疲れが出て翌日は起きるのが大変だったが、通院の後、一刻も早く実家に行かなくてはならないと思うとジッとしていられず、予約時間どころか、クリニックが開く、かなり前に家を出て、寒い屋外で診察開始を待った。薬局で血圧を測ったら、上が百八十で下が百三十だった。実家に向かう電車の中でヘルプマークを見せても、優先席に座っている人は誰も席を譲ってくれなかった。
 その次の日は、再び母のケアマネージャーと市の包括支援センターの人が来た。今度は前もっての約束だったし午後だったので、叔父も、きちんと身支度をしていた。他方、母は、介護サービスの利用料が高額なので、そういう制度の関係者が来るのは嫌だと言って部屋に籠ってしまった。
 しかし、母のケアマネージャーの話だと、利用料は母が主張する五分の一だという。月額と一回の利用料を勘違いしているのではないかと言われたが、そうではなく、母が都合の良いように嘘を付いていることは私には判っていた。母のケアマネージャーは、これから後も、母が恣意的にしていることを、何事も、悪気はなかった、勘違いだったと言い張った。
 来週から再びヘルパーを入れて独り暮らしできるか様子を見るので、それまでに二人とも帰ってくださいと言われた。私は、この前はロレツも回っておらずボロボロでしたよねと言われたが、それからの消耗戦は、さらに激しいものだった。
 母のケアマネージャーが帰るや否や、叔父は酒を飲み始めた。叔父と帰る日の調整をしようとしたら、何で帰らなければならないの? などと言い、つい十分前のことなのに何を聞いていたのかと思う。
 その日は母の通院で、私が同行した。診療所で母の介助をしているとき、叔父から私に酒を買って来いと電話があった。その後、母は、また三時間かけて楽しそうに買い物をし、何もせず手持ち無沙汰で母を見ているだけの私は、この時間、仕事をしたら、いったい幾ら報酬が貰えるのだろうと思った。
 さらに帰宅後、また、なかったはずの父の預金通帳が出てきた。出てきたというより母が持っていて、どうして、あると言わなかったのだと言うと、前々からあると言っていたと言う。預金が把握できないからと松戸市の法律相談を申し込んでいたのを見ていたではないか。
 そして、酔って一糸まとわぬ姿で出てきた叔父を傍目に眠剤を服み上階に上がろうとしたら、床が一面、水びたしだった。叔父が放尿していたのだ。
 そんなこんなで一段落ついたのは、私が眠剤を服んでから三時間後、午前二時だった。しかし、追加眠剤を服もうとすると、母は眠剤がそんなに早く切れるはずがないと主張し、追加眠剤を服むことを許してくれない。
 母が転倒したのは、そんな日が流れている中でのことだった。何かに躓き、アッと思った時には倒れていた。頭の上の方に家具があったので、それに頭をぶつけなかったのは幸いだったが、手を付いたので手が腫れ上がっている。
 叔父も居合わせたのだが、翌日になると全く覚えていないと言う。私は心配で日付が変わるまで母に付き合っていた。眠剤を服んでいるのに下階で音がすると目が覚め、二十分近く掛けて倒けつ転びつ下階に行くと、母は父の遺骨の前でブツブツ何か言っている。
 なんで帰らなければいけないのかと言っていた叔父は、翌朝、起きたら、書き置きをして、すでに帰っていた。母は、すっかり弱気になっていて、自分はもう駄目だと繰り返す。そして私がいて良かったと言う。
 母のケアマネージャーに電話で相談すると、そう言われて嬉しいですよねと言われる。しかし、私は、ちっとも嬉しくはなかった。急に年老いた母を見て狼狽したのか、今まで私の力にならなかったのに勝手だと思ったのか。
 母が弱気になり死ぬ死ぬと繰り返している旨を伝えると、大丈夫です、帰って寝てくださいと言われた。私は、寝てくださいという言葉に身体資本の人の実感が籠っているように聞こえた。
 母のケアマネージャーに母が一人のときにでも入れるようにキーボックスを設置して欲しいと言われ、ネットの通販でキーボックスを買った。母が洗濯機のネットが駄目になったと言うので、やはりネットの通販で買ってやると、何でも買えるの? と物珍しそうな顔をした。
 新しい通帳や書類が出てくるたびに私は市役所の支所に母の住民票を取りに行き、毎日、母の楽しみである買い物に付き合った。これも及び知らないことであったが、母は足に人工関節を入れていて荷物が持てないのだ。そして、今まではコーヒー一杯飲むのも贅沢だと言っていたのに、酒が飲みたいから付き合えと言う。
 また、叔父が帰ってからも、母は、叔父さんは倹しい生活をしている、お父さんは生前、好きなものも食べずに私に金を送ってやったと盛んに言う。
 毎日、酒を飲んでいる叔父の姿や、実家の食生活を見たり、毎月、旅行に行っていたことを聞いて、三百円の牛丼を食べるのも心苦しくなり親に伺いを立てて詰られていた私が、何か自分でも気の毒になった。親は、私がすることが不足なことではなく、私がしていることを、そもそも否定していたのだ。
 私は小中学校を首席で出、母が選んで特待生として入れさせられた高校こそ教師のイジメと家庭不和で退学したが、大検を取って入学した専門学校も全優の成績で出、大学への推薦も取ったのに、遊んでいるといって大学には行かせてもらえなかった。私は、ずっと、自分の努力不足を責めていた。
 金にしたってそうだ。私は親の金で生計を立てていることで肩身の狭い思いをしてきた。しかし、これも、当時の主治医が自分で病気にして働けなくした子供を殺す気かと言って親に出させたもので、額も母のケアマネージャーに同情される程度のものだ。
 しかし、親は私が勉強不足なことを怒っているのではなく、そもそも勉強していること自体を認めず、必要なことだろうが一円でも使えば無駄遣いをしていることになるのだ。
 無駄遣いをしていると思っている親は、わざと私に借金をするように仕向けた。毎月、四万円ちかい借金を返していて、当時の私の担当保健師に言わせると、月に六万円という生活費は生活保護受給者より少ないとのことだった。父が死んだのは、その借金を返し終えた矢先だった。
 毎日イートインスペースのあるコンビニに行っていたのは、そのような実家の環境に耐えられなかったのだと思う。午前二時近くまでテレビを観ている母に付き合い、寝ている間も母の寝室で物音がすると目が覚め、早朝からゴミ出しをしたりして落ち着いた時間を過ごす暇がなかった。
 ゴミ出しといえば、近所のゴミ捨て場に、市の指定の袋で出していなかったので回収されなかったという張り紙がしてあった。その張り紙の最後に「今日は違反の袋で出していないでしょうね。」と書いてあり、嫌な感じというより、この町で育った自分が恥ずかしくなった。そしてドキリとして張り紙に書いてあった「違反の袋」の風袋を見て、自分が出したゴミではなくてホッとした。
 叔父が帰ってから、母も少し落ち着きを取り戻し、食事は外に摂りに行って良いと言うようになった。私は朝食を実家で摂り、市役所の支所に併設されている市立図書館の分館に行った。
 この図書館は良書ぞろいで、家で本を読むことを許されなかった私は、幼少のころ近所にこの図書館がなかったら、私は読書の楽しみを知らず、それはつまり何の娯楽も知らなかったのではないかと思う。
 私が港区立図書館で借りている読みかけの本は全て揃っていて、それに加えて佐野洋子さんの対談集を借りた。西原理恵子さんとの対談で老いていった親の話を読み、暗い方にばかり考えが行った。
 このころの日記を引っ繰り返しても、短い感想がチョコチョコ書いてあるだけで、東京にいたのか松戸のいたのか、客観的な事実がほとんど記されていない。やはり記憶だけを頼ると、母が駄目かもしれないと繰り返して言い、叔父に電話をすると、本当に駄目かもしれないな…… 今度、行くときには長居できるようにするからと珍しく真剣な口調で言われた。
 私は、毎日、午前一時過ぎまで、テレビでバラエティー番組を観る母に付き合った。母は登場するタレントに異様なほどに詳しかった。私が子供のときも、母は私には午後九時のニュースさえ観せずに自分ひとりでテレビを観ていて、それらに疎い私は周囲の同級生から孤立する原因のひとつになった。
 そんな中、私が「百回オジサン」と呼ぶ人物から電話の着信があった。百回オジサンという名前の所以は、一日に百回も電話をしてきたり午前五時に私の家に押し掛けるからである。
 百回オジサンは、私の精神状態が酷く心臓が針の筵の上で転がされているような感じのときにも、父から私を脅迫しろと電話があったと、私に一時間おきぐらいに電話をしてきていた。父の書類を整理していたら父が百回オジサンに宛てた手紙の下書きが出てきた矢先だった。私の怠惰な生活を報告してくれて有り難うなどとあった。
 私には父の反感を煽り、父には私の反感を煽っていたのだが、それがバレたら自分の両親と組んで私の父から金を騙し取ろうとした。そういうことをしながら、それから何年たっても、どの面を下げてか私と遊ぼうと電話をしてきたりファクシミリを送ってきたりする。
 警察に相談すると、何回、着信があったか把握したいので着信拒否を解除して記録を残してくれと言われ、着信可能な状態になっていたのだ。警察が、何度、注意しても聞かないどころか、警察に電話をして私との仲を取り持てと言うそうだ。
 百回オジサンが自分の親と結託して私の親から金を騙し取ろうとしたとき、百回オジサンの母親に、あなたの子供が何をしているのか判っているのかと言うと、ウチの子に限って警察の注意を受けるようなことをしていないと言う。「ウチの子に限って」と本当に言う人がいるんだな、六十歳を過ぎてもウチの子なのだなと、開いた口が塞がらなかった。
 それから数日後、叔父が大きなボストンバックを携えて実家にやってきた。これで安心だと思ったら、ボストンバックから取り出したのは衣類ではなく焼酎のパックだった。叔父は実家に来るなり飲みだした。私は叔父が来たのだから帰ると言ったのだが、母が、どうしても居ろと言う。
 何度、眠剤で寝ていると言っても、夜中に大騒ぎし、私は、耳元でヤカンを叩かれているような気分だった。限界だった。実家で作業していた相続関係の書類を叩き付け、自分でやれ! と言ってタクシーを呼ばせた。
 タクシーの中では口渇や薬の作用によってフラフラだった。この辺が私の甘さなのだろうが、それでもコンビニで飲み物を買いながら運転手の話に付き合って、一時間半程度で白金の自宅に着いた。そしてタクシー代は払わせたのだからと母に着いたと電話をした。
 母は、こういうとき、鶏を絞めたような汚い声と口調を使うのだが、その声で、タクシーで帰ったのに寝てねぇじゃねぇかよぉ、と怒鳴った。しかし、実家では、毎日、汗をビッショリかいて目が覚めるのだが、何ヶ月かぶりくらいに熟睡した。
 それなのに、翌日の午前九時前に玄関ベルが連打された。何事かと思ったらマンションの管理人が背広の男二人を連れて立っている。背広の男は信託銀行系の不動産会社の名刺を出し、コンビニのコピー機に書類を忘れ、防犯カメラの映像を管理人に見せたら持ち去ったのが私だと判明したと言う。
 私は相続関係で書類を大量にコピーしていて、そのような書類があったのかどうか覚えていないし、あったとしても無意識に破棄している。
 そのときは疲労と寝不足で頭が朦朧としていたが、後になり、なんでテメェが悪いのに私が責められなくてはならないのか、なんでコンビニは防犯カメラの映像を見せるのか、なんで管理人は住民の名前や住居を教えるのかと、フツフツと怒りが込み上げてきた。
 私が、何を、そんな大量にコピーしていたのかというと、父の戸籍謄本だ。私の両親は結婚して母の実家である港区に戸籍を作っていて、私も結婚せずに同一戸籍のままなので、死亡時の戸籍謄本は容易く取ることができる。それ以前の戸籍は小田原市にあり、これも一ヶ所で済むから楽勝…… と思っていたら、同じ戸籍なのに四回も改製されているという。しかも、それぞれ一ページではない。
 港区の戸籍謄本は提出先の数だけ取ってしまったのだが、小田原市の戸籍謄本の手数料を考えると大変な金額になる。そこで一部だけ取り寄せ、法務局で法定相続情報一覧図を作ってもらうことにした。
 その翌日、私は、ケースワーカーがいる部署で紹介された生活・就労支援センターに行くことになっていた。法務局は、その近所にあり、どうしても、そのときに手続きがしたくて戸籍謄本の控えを取っていたのだ。
 意気込んで向かった法務局であったが、煩雑な手続きや手数料の納付などがあるのかと思ったら、ハンコひとつで終りだった。
 その後、生活・就労支援センターで今後の生計の相談と思っていたのだが、生活の相談というのは、生活をすべて包括的に援助するということで、とりあえず相続ですねといって、その場で法テラスの法律相談を申し込んでくれて、当日は、同行してくれるという。
 いつも思うのだが、出身が港区でなかったら自分は人生を投げ出して死んでいたのではないかと思う。実際、店頭にある商品を鷲掴みにして持ってきたり、未遂に終わったが自殺を企てたことがあったが、港区の保健師と連絡を取るようになってから、少なくとも自殺を企てることはなくなっている。
 生活・就労支援センターの帰り、私は六本木の芋洗坂にある「いきなり!ステーキ」で肉を食べた後、渋谷に行った。なぜかこのころ、食欲だけでなく、色々なことが、まるで自分の精神障害が消えたかのように普通だった。実家との往復で電車に乗っても、嫌な汗もかかず普通に通勤できそうな気がした。
 そして渋谷、これも港区ではないが、なかったら死んでいたかもしれないと思う場所である。記録はないが、この日は、好きな喫茶店で、ひと息ついたのだと思う。心臓が針の筵の上で転がされている気がしたときも、ここに来ると収まった。
 このころ、私は頻繁に渋谷に行っている。父が死んで直ぐ後、これも行きつけの床屋に行った。そして印象深いのは氷雨が降る日のことだ。
 私は自分の生活が終わって持ち物が離散するという気持ちに囚われていた。そして家にある高級ウィスキーを思った。これが、たとえば話のネタにマッカラン五十年などを買ってしまうような人の手に渡ったら嫌だなと思った。そして、やはり渋谷にある行きつけのバーに持っていくことにした。
 バスで行こうと思ったが、冷たい雨の中、ウィスキーが何本も入った袋を持って駅の反対口に出て道玄坂を上って…… と思うと気が重く、もう私を折檻するような親はいないと、再び自分に繰り返して言い聞かせ、タクシーを使うことにした。
 オーナー・バーテンダーといっても私と同い年で、彼も私と同じで彼の師匠の時代のバーに通った人間だから、名刺にはバトラー(執事)と刷っている。そして、彼の師匠と並んで、古川さん、トニーさん…… と、物故した懐かしいバーテンダーの顔が浮かんで泣きそうになってしまった。彼らに守られているような安心感に包まれて酒を飲むことは、もうないのだと思った。
 その日は酒を一口飲んだだけで吐いてしまった。そもそも、それまでの精神的な不安定さのためにヒルナミン(レボトミン)を常用していたせいかもしれない。普段、この店には、看板を過ぎるどころか翌日の営業準備が始まるまでいるのだが、数杯だけで帰ってきた。
 このころ渋谷に行ったことといえば、母の万年筆を「伊東屋」の渋谷店で直してもらったこともある。私の両親は私に色々なことをするのを禁じたように、自分たちの物を触ることもさせなかった。私は写真が好きだったのだが、親はカメラを買ってくれるどころか自分のカメラにも触らせなかった。中学校時代の担任が見かねて自分の高級一眼レフを貸してくれたくらいだ。それについても私の親は、他人にカメラを貸すなどというのはバカのすることだと言っていたのだが、そのバカは、今は教育長あたりになっているらしい。
 そんな母が私に万年筆をくれると言ったときには驚いた。しかし、私に自分の所有物を触らせないのは、決して自分がそれを大事にしているからではなく、私の自由を奪うのが目的なので、コンディションは酷いどころではなかった。私はペン先まで分解し、中性洗剤を溶かした温い湯に、数日、浸けておいた。そして、こびりついていたインクが全て取れ、インクも通るようになったのだが、どうしても、すぐにインクが降りてこなくなってしまう。
 これは修理かな…… と思ったが、買った店が判らない。私は昔、万年筆は「丸善」で買っていたのだが、経営状態とともに店や商品に愛着を持つ店員がいなくなってしまい、それは客への態度にも現れていた。それに近所に支店がない。
 普段、渋谷だったら、こういうものは「ロフト」に頼むのだが、すでにセンター街を抜ける気力さえもなく、東横デパートに入っている伊東屋に持っていった。ツィードの三つ揃い、しかもベストはラペル付き、を着た店員が色々と試みたが改善せず、ベテランと思える女性店員に言われ超音波洗浄器に掛けてくれた。
 それで直ったのだが、話は、それからである。値段を訊くと、お代はいいですと言う上に、修理でインクを消費しましたのでと、カートリッジを一本、付けてくれた。悪い気がしたので、でしたら別にカートリッジを一箱くださいと言ったら、故障が直ったと判ってからの方が宜しいですよと言われた。
 差し出がましいに似た諺を付け、執筆時に推敲するときはペン先を上に向けると乾燥しますのでと言われて、執筆なんて大それたことはしないんですと、こそばゆい気持ちになった。カートリッジを付けてくれたときには感激に近い気持ちさえ覚えたし、そういう風に、色々と感情が動いたのは、やはり渋谷の力と情緒が不安定だったからだと思う。
 それでも、東京に帰ってきて、少し平静を取り戻しつつあった。生活・就労支援センターの職員と法テラスに相談に行くことにもなっていたし、将来は徐々に自分が意図する方向に向かっているように思えた。母から電話があったのは、そんなときのことだ。
 数年前、母が入院をした。それも私が被告人として出廷した裁判に証人として出廷した父の証言として知った。このとき、父は私が法を犯すように仕向けていると言ったり明らかな嘘を付いたりして裁判官に制止されたものだが、それでも入院しているのなら連絡が取れないのは不便だろうと、私は自分が昔使っていた3G携帯電話で回線契約をし、トランシーバーがわりに母に持たせていた。
 母は携帯電話の使い方を覚えようとせず、私も半ば諦めていたのだが、初めて、その電話から着信があり驚いた。ケアマネージャーに使い方を教わったのかと、少しワクワクしたのだが、出てみたら背後で酔っ払った叔父の声がした。叔父は、私が帰ってから一ヶ月も実家に入り入り浸っていたそうである。そして母は、ひとつ覚えのように父の預金通帳を返しなさいと繰り返す。
 それから数日中に、自分の通院、生活・就労支援センターの職員と法テラスに相談、相続の件で話がしたいという証券会社や母の通院のために松戸を訪問などと予定が詰まっていたのだが、急に気が重くなった。
 私は自分の通院で不調を訴えたが、主治医は、むしろ良い兆しが見えると言う。そのときは本当かと思ったのだが、今の、昼過ぎになっても恐怖で起きられなくて活動できる時間が一日に数時間しかないという毎日との対比で見ると、たしかに症状を客観的に見るように心掛けているという主治医の言うことは正しかったのかもしれない。
 法テラスでの相談は徒労に終わった。相続の相談担当という弁護士が言うことは、ことごとく間違えていたからだ。法定相続以外の相続は、あくまで例外で、遺産分割協議書がなければ銀行も預金相続を解除しない、すなわち、土地家屋を母の物とするだけでも、そういう遺産分割協議書がなければ預金凍結は解除できないと言うのだ。法定相続情報一覧表なんて作っても戸籍謄本の代わりになんてなりませんよとも言われた。そこで相談時間は終了となった。
 それを一緒に聞いた生活・就労支援センターの職員に、明日、母親に、遺産を半分、分けてもらうよう、きちっと話をして来てくださいねと言われ、また気が重くなった。しかし、自宅に戻って銀行などに電話をしたら、銀行は、遺産分割協議書がなくても構わない、正当な相続人であることが判れば法定相続情報一覧図で十分との返事だった。
 翌日、証券会社でファイナンシャルプランナーの話を聞いて、なおさら気が重くなったうえで実家に行ったら、実家では母と叔父が酒盛りをしていた。そして遺産の話をすると、例の絞められた鶏のような言い方で、テメェは遺産をブン取るために本来なら不要な相続という手続きを作って嬉々として動いていたのだろうと罵倒し始めた。
 死亡届など出さずに自分が父の預金を使い続ければ良かったのだと主張する。預金通帳に拘っていた理由は、それだったのだ。そして、死んだお父さんの前で遺産の話など嫌だ嫌だと駄々をこね始めた。それまでに手続きした年金も生命保険も、父が死んだところで私には一銭も入らない。
 翌日、母を診療所に送り届けると、さすがに居ても立ってもいられなくて、診療所の前からバスに乗って帰ってきた。母は詰るだけ詰った相手に、今日も一緒に買い物をして美味しいものを食べましょうと言った。
 しかし、東京に帰って銀行から相続届のフォームが送られてくると、ほとんどの銀行の記入見本は振込先が配偶者半分の子供半分になっている。母に電話をすると、まだ実家に入り浸っている叔父が、背後から、お前には一銭もやらないと言え! と、けしかけている。
 またか、と思った。叔父は私には遺産を分けるように母に話しておくと言っていたのだ。大学進学のとき、叔父は私に親にはきちっと大学に行かせるように言っておくからと大学を受験させ、私は入学の申し込みまでした。しかし、叔父は両親には私のことを大学に行かせるに値しないと言ったそうで、入学金は振り込まれなかった。それと同じことを再びしたのだ。
 このことを区の精神障害者地域活動支援センターの職員に相談したところ、叔父さんは入り浸っているのではなく母が心配で一緒にいてあげているのでしょうと言われた。そのような常識で計れる家族ではない。
 銀行の相続届が揃い、母の通院に合わせて署名捺印を貰いに行った。生活・就労支援センターの職員には、署名捺印はいいですから母とよく向き合って距離を縮めてくださいと言われた。そして何かあったら謝ってくださいと言われた。距離が縮まるような関係ではないと言っても、親はあなたを愛しているから生活費を送ったりするんですと言う。
 主治医に、その話をすると、その職員には、それは治療方針に反することなので言うことを聞かないように主治医に言われたと伝えてくれと言われた。素人の浅知恵ですとも言われた。そして、実家に行っても耐えられなければ帰って来ればいいと言われた。
 実家に行くと、叔父は文字通り私の顔を見るなり逃げ出した。ウチの子に限ってに始まり、去年は本当に、そういう文字通りのことがあるのだなということを、たくさん体験した。事実は小説より奇なりというが、小説とは虚偽の事象を用いながらも真実を語っているからリアリティーがあるのであって、事実も小説も似たようなものなのだなと思った。
 叔父は実家に行く途上にはない新橋で飲んだ挙句、ウィスキーを含む一万円ほどの買い物をしてきたという。テーブルの上には半分ほど空いた国産ウィスキーのボトルがあった。そして母は、叔父さんは自分にもビールを買ってくれて優しいと言う。私が何か買っていってやると親の金を散財したと詰るのに、お前には叔父さんのような優しさがないのかと言う。
 母の通院では、血液のγ‐GTPの値が八百まで跳ね上がっていた。毎日、朝から晩まで酒盛りをしていれば当然である。私に遺産を分け与える必要などないなどと口当たりの良い言葉を並べる叔父と飲む酒は、さぞ美味かろう。
 このころになると、日記も再び付け始められている。ただ、一年ほど前から、ページをひっくり返して読むのが面倒なので、書くと同時に非公開のブログに入力しているのだが、入力が無茶苦茶である。変換以前に入力されている文字列が正しくない。とにかくストレスが激しかったことだけは確かだ。
 生活・就労支援センターの職員には、あいかわらず、主治医には対峙しない方法ではなく、どう対峙したらいいのか訊いて来いと言われている。キツくて事務ができないと言っても、それは精神的にキツいからではなく事務処理能力がないから辛いと思われていたようで、私が弁護士は書類を作らないと言うのに、さかんに弁護士弁護士と言われていることが記録に残っている。
 私の中学生の時の塾の同級生で弁護士をやっている人間がいる。大学にも行かせてもらえなかったし、勉強ができたことのメリットは、成績別で同じクラスに振り分けられた人間に、これらの職業に就いている人がいるくらいである。
 彼には過去にもいろいろと迷惑を掛けていて、愛想を尽かされているのは承知している。実は、コンビニのイートインスペースで手紙を書きまくっていたとき、彼にも電話か手紙はしていたはずだが返事がなく、しかし弁護士と言われると彼しか思い付かないので、改めて手紙を書いてみた。
 そうしたら折り返し電話があり、どなたが亡くなったの? と言われ、やはり読まれていなかったと思ったが、私は少なからず驚き喜んだ。そして、弁護士といっても手紙を書いたり電話をするのが精一杯だよ、それで相手が応じなければ裁判所に持っていくしかないし、そうすると預金は凍結されたままだから使い込まれることはないけれど、一年二年は当たり前に掛かるよと言われた。
 私は、とりあえず熟慮してみると言って電話を切った。実際、考えに考えて、何日も、ほとんど眠れず、結論を出した日も午前三時まで考え込んでいた。結局は明日の百より今日の五十である。私の手元にある金は大卒の初任給ひと月分くらいしかない。
 土地家屋と父の預貯金は母が全て取り、私は自動車一台分くらいの有価証券で手を打つことにした。そして、午前三時だが母に電話を架けてみたら、母は普通に電話に出た。
 金持ち喧嘩せずではないが、それからの母は上機嫌だった。本来は不要な手続きだから実家のある町で相続の手続きなどしている人間など誰もいないと言っていたのに、近所の人にはサービス価格でやっていた税理士がいたなどと平然と話す。その間も、私は実家にいて、電気やらガスやらの請求書が来るたびに請求元に電話をして名義変更の手続きをした。
 実家にいたのは書類を実家にしか送れないというところが多かったのと、父の口座から引き落とせなかったという督促状を持って金融機関に払い込みに行かなければならなかったからだ。母は歩行困難なので口座振替の手続きも取らねばならなかった。
 それが一段落すんで東京に戻り、銀行回りなどをした。今になると何をそんなに悩んでいたのか判らないが、話としては単純なことだったのだと思う。精神障害者地域活動支援センターに電話をしては、職員に、何回、同じことを言わせるんだというようなことを言われたと日記に付けてある。保健所にいる前任の保健師に電話を架けてみると、今は別の担当保健師がいるので、立場上…… と言われ、それでも、相続など一生に一度しかないような大仕事をしているのだからと言われた。今の担当保健師に電話をすると、今度は松戸市に相談してくれではなく法律相談に行ってくれと言われた。
 他方、母は正月に私が実家に遊びに行くことを、ひと月以上前から楽しみにして、何度も電話を架けてきた。私は二十五年以上、松戸ではなく東京で越年をしていて、何を今さらという感じがしなくはない。一月四日が母の通院だから、大晦日に行って通院に同行したら帰ってこようと思っていた。
 私の、そういう心づもりを見て取ったら、母は私を長居させるために大騒ぎをし始めた。預金が凍結されて国庫に入るなどと訳の判らないことを口走り始めたのだ。最初は父の預金のことを言っているのかと思い、母の口座に振り込まれているので国庫になど入らないと言って聞かせるのだが、自分の預金だと言う。根拠を求めるとATMで金が降ろせないし通帳の記帳ができないと言う。
 叔父さんは、あれだけ入り浸っていたのに帰ったら電話一本も寄越さないと言いながら、叔父も呼んでくれとも言う。断っても引かない。形だけ叔父に電話を架けてみるが、叔父も発信者が私だと出ない。電話をしたけど出なかったということで放っておいた。
 日記を見るとシャワーを浴びるのも困難で外出するから無理して浴びるという感じだったようなのだが、今シーズンは一本も観られていない民放の連続テレビドラマは欠かさず観ていたようである。認知症を扱ったドラマについての記述があり、認知症に罹ってからの余生をどう描くのだろうかと思っていたら一年後に肺炎で呆気なく死んだとあって羨ましいと書いてある。
 結局は、母のケアマネージャーにキーボックスの番号を母に教えてしまったので変えて欲しいと言われていたこともあり、十二月の二十七日木曜日、自分の通院の後、その足で松戸に向かった。
 クリニック最寄りの田町駅から、松戸市小金原の実家まで、ドアツードアで一時間三十分である。自宅からだと、さらに掛かる。実家に着いたのは午後五時で、明かりが灯っていなくてドキッとする。さらに母が庭に出たきり戻ってこないので探しに出ると、転倒して起きられなかったという。色々とハラハラさせられたのだが、本人は至って呑気である。
 翌朝は疲れが出て銀行が開いている時間には起きられなかった。しかし、やはり叔父がいないということの意味は大きいようで、いたって事務的に父宛に来た書類を捌き税金の督促状を持ってコンビニに払い込みに行ったりしていた。
 やっと前年から親に強制された百回オジサンとの越年をしなくて済むようになり、親に故意に作られた借金も返し終え、今年こそ心穏やかに年を越せると思っていたのだが、その平穏な越年を叔父に壊されては叶わないと思った。
 しかし、母は、また叔父を呼ぶと言い始めて聞かない。そして叔父が私の電話に出ないと判ると、今度は、やっと使えるようになった自分の携帯電話で叔父に電話を架けまくった。私が父との連絡用に持たせた携帯電話だが、こんな不本意な使い方をされるとは思わなかった。
 携帯電話といえば、父が携帯電話のバッテリーが一日も持たないというので買ってやったことがあったのだが、実際は数日に一回、数時間しか充電していなかったとのことだった。自動車のラジエター液か何かもマックスの線を超える線まで入れてシャーシを腐食させてしまったこともあり、父の行動は、すべて思い込みの上に成り立っている。
 叔父も、私がいると想像が付くからだろう、電話には出なかったのだが、さすがに十数コールもされ電話に出た。それでも大晦日には来なくて、やっぱり私がいると居心地が悪いのかと思って安心したのだが、元日になってやってきた。
 そして、今度は居間の絨毯の上で服を着たまま放尿を始めた。そのたびに母が服を着替えさせるのだが、何度も放尿を繰り返し、私は母の面倒を見て午前三時過ぎまで眠れなかった。さすがに私も洗い物をする気は失せていた。そして叔父は、午前六時には私が寝ている真下の部屋で、大音量でテレビを付ける。母は私には出さない食事を叔父には出す。
 我慢できない。帰ろうとしたら、銀行はどうするのだ、通院はどうするのだと詰め寄る。
「だったら、あの男を追い返せ!」
 私は数年ぶりくらいに怒鳴った。そうしたら、もう呼ばなければいい話でしょうと、か細い声を出す。数週間前から呼ぶなといっているではないか。それでも、ヒルナミンを齧って何とか正月四日まで実家にいた。悪寒がするかと思えば身体が火照り、身体の色々なところに無理が来ていた。
 開くや否や、銀行印も持たせて母を銀行に連れて行く。そうしたら普通にATMで記帳もできるし金も降ろせる。またやられた……。そして、キーボックスが開いていたのだが、母はケアマネージャーが開けていったのだと言い張る。母のケアマネージャーに、新しいキーボックスの番号と告げるのと併せてその話をすると、それは単に母が勘違いしているんですと言われる。
 もう、ここにはいられない。一刻も早く、その場を離れたかった。この足で帰るからと言った。そうしたら、母は、また、私の通院はどうなるの? と甘えた声を出す。叔父さんに一緒に行ってもらえと吐き捨てて帰ってきた。日記を見ると、その日も私は食事を作ってもらえず、駅ビルの「ドトールコーヒー」で食事を摂って帰ってきている。
 それなのに、今年に入ってからも、母からは、あまりに来ないで孤独死していたらどうするんだなどと引っ切りなしに電話が架かってくる。孤独死については私の方が確率が高い。実際、自殺未遂をしたときも、ひと月も発見されなかった。母のケアマネージャーに電話をすると、ヘルパーも入っているし孤独死などしないから大丈夫ですと言われた。
 生活・就労支援センターの担当職員が替わって、弁護士弁護士と言う人ではなくなり、今度は弁護士ではなく、希望どおり税理士に相談に行った。そのとき、その職員は、母にできるだけ会わないで済む方法はないかと税理士に訊いた。私としては意識していないのだが、そのときを含め、話題が母のことになると私は激高しているとのことだった。また、センターにいるときも母から頻繁に電話があったのだが、そのときも電話の発信人を見て母だと判るとビクッとしていたとのこと。
 自分としては、そんなものは慣れっこになっていたと思っていたが、やはりストレスに感じていたのかもしれない。
 少しは気持ちに余裕を持とうと趣味のことをすることにした。カメラが趣味で総合光学機器メーカーに転職したこともあるくらいで、カメラをメンテナンスに出すことにした。その、カメラのサービスセンターで事件を起こしてしまった。
 カメラをメンテナンスに出したくらいだから、そこで氏名と連絡先を書いている。なので、そこで何かをすれば私だということが判るにも関わらず、私は、ごく自然に、展示品のカメラアクセサリーを万引きしてしまった。やってしまってから、非常に焦った。
 主治医に相談したが、それでも抱え切れず、精神障害者地域活動支援センターの職員に相談をした。そうしたら、あなたのような人は他人の財布から金を抜いても何も感じないと言われた。この人は理解ができないのだなと思い、主治医に相談しているので結構ですと言って電話を切ろうとした。そうしたら、ちょっと待て、あなたも、そういう道徳心を起こさせるカウンセリングを受けさせない医者も頭がオカシイ! と言って電話を切らせない。
 そもそも道徳心がなければ罪悪感など覚えないわけで、私の主治医の頭がオカシイとしたら、その職員は、そんなことにも考えが及ばないガキである。考えてみれば、この人は、以前も、鬱など朝起きて光を浴びれば治りますと言っていた。しかし深い話をしなくなったせいか、その職員は今は穏やかに話をする。
 そして新宿警察署の刑事課の警察官から電話が来た。私は弁護士の友人に仕事として頼まれてくれないかと相談した。友人には、そんなことに金を使っていたら、お前が相続する自動車一台分くらいの金額なんて、すぐになくなるぞと言われた。そして生まれて初めて弁護士と打ち合わせというのをした。
 母のケアマネージャーに、そのようなことがあるので逮捕・勾留されるかもしれないし、前科もあるから懲役の実刑判決を受けるかもしれないと伝えた。そうしたら、そんなこと、もう止めましょうよと言われ、どいつもこいつも道徳心がないとか好きで法を犯すと思っているのかと思うと腹が立った。
 最初、警察官が電話を架けてきたとき、実家に通っているので直ぐには行けないと言うと、実家は松戸だと聞いた上で、新宿警察署まで、どれくらいの時間が掛かるかと訊かれた。私が二時間と答えたら、松戸から二時間も掛かるかと言われ、かなり厄介な人だと思っていたのだが、電話での印象とは逆に穏やかな人だった。
 私は抗精神薬で口渇が酷いのでペットボトルの飲み物を持参していた。警察官を待ちながら、廊下で、それを飲んでいたのだが、現れた警察官は、ゆっくり飲んでからでいいですよと言って待っていた。
 取調室に連れて行かれ、具体的には何か忘れたが、やはり欧米でいうレディーファースト的な対応を受けた。なぜ呼ばれたのか判るかと訊かれ、カメラアクセサリーを盗んだ件ですよねと言ったら、居直らずに反省する気持ちが感じられると言って穏やかに話を始めた。途中、他の警察官が取調室の扉が開いているが良いのかと訊きに来たが、その警察官は取り調べではないと答えた。
 友人の弁護士が言うように、犯歴照会を行なったら前科が出てきたと言う。前回は三ヶ月も拘留され苦痛を味わったのに、それから三年しか経っていない、これで無罪放免としたら、反省する期間は、それよりも短くなると思うので、警察としては懲罰を与えたいと言う。
 前回は、出廷した父が証言したように、父が私を経済的にも精神的にも追い詰め、私は法務省に保護されたいという気持ちが強かったので、ちょっと警察官の言うことは違うかなと思った。警察官は、そのとき初めて私が障害者手帳を持っていることに気が付いたようで、三年というのも違う気がするし、どうも、その犯歴は不確かなようだ。
 しかし前回の裁判のことになると、その都度、父の態度が鮮明に思い出される。私を苦しめなければ駄目だとエキサイトし、裁判官に制止された。まるでフィルムかディスクに記録されたように鮮明に画が浮かぶ。裁判は父が他に嘘の証言をしたことも露呈し、父が出廷したことは情状酌量よりも逆の方向に作用したのだが、母は父から裁判官は父を擁護して私を一方的に非難し厳罰を下したと報告を受けたそうである。
 さて、今回のことだが、警察官は、今回は被害者が被害届けを頑として出さないので、窃盗は親告罪であるから立件できないと言う。理由を問うと、顧客名簿を見ると古くからのユーザーで、しかも昔の物を大切に使っていて、そのような顧客に懲罰を与えることは望まない、これはサービスセンターだけでなく法人としての意向であると言われたとのことだ。
 警察官には、この足で謝罪して恥を掻いてきなさいと言われ、日を改めて、きちっと謝罪に行こうと思ったのだが、ラフな格好で謝罪に行った。そうしたら恥など掻かされない対応をされた。友人の弁護士は、大企業が、そんな些末なことに構ってはいられなかったのだろうと言うのだが、私は銀の燭台の存在を信じた。
 このときも、母は私が懲役を食らったら誰が自分の面倒を見るのかなどと罵詈雑言の電話を架けてきた。非難することの全てが自分に関することばかりで、私を気遣う言葉など何ひとつなかった。私がストレスを掛けないでくれと言うと、何がストレスだと言うので、例えば正月の事だと言うと、お前が正月を楽しみにして叔父さんを引き連れてきたのではないかと、また事実を都合よく曲げて私を詰る。
 他人様に迷惑を掛けたからではなく、親に恥を掻かせたからと怒鳴られた。このことも、他人に話すと、そういう親かという答えが返ってくるのが多数なのだが、やはり中には、きっと、自分のことで精一杯だったんだよと母を擁護する声がある。こういう人がいるから、私が子供のときに親に嘘を付かれて色々されたときも、親が嘘を付くはずがない、子供のことを思っての行動だったで済まされてしまったのだ。
 自己中心的といえば、先日、実家の隣人から電話があった。実家の冷蔵庫のアラームが鳴っていたと言う。それを知らせようと私の家の玄関ベルを押しても出ない。そこでドアに手を掛けたら鍵が開いていたので警察を呼んだと言う。
 今ひとつ、何を言おうとしたいのか判らない電話だった。それを訊くと、家族なのだから頻繁に様子を見に来るべきだと言う。何事に対しても腹が立っていた私は、家族家族と仰いますが、あなたは高校時代に殴る蹴るされた上に精神を病んだら家を追い出されたのに隣人として何かしましたかと言っていた。これから迷惑を掛けられては困ると言いたいのだろうと思ったが、後に実家にいて過労で寝ているときも、回覧板を持ってきて、こちらが苦しいのは見れば判るのに延々と回覧板の内容を説明した。単に御節介なようだ。
 母は勝手なもので、あれだけガンガン電話をしてきたのが、こちらの電話にも出なくなった。税理士を使うと言ったら、そんなことをしたら税金の所在が明らかになって納税しなくてはいけなくなる、督促が来ても放っておけばいいと言うので、それを私が説得しようとしたからであろう。
 しかし、向こうは土地家屋を入れると数千万円ちかい資産を相続しながら、なぜ自動車一台分くらいの金額しか相続しない自分が、こんなに積極的に動かなければいけないのだ。大学とはいわない、高校くらい出してくれれば恩は感じただろうが、親との思い出は、恩などなく、すなわち責められ虐げられた思い出である。